ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

ACミラン

2007年12月14日 | 芸術


対ACミラン、1-0で浦和は負けた訳だが、良く頑張っ
たとも言えるし、スコアー以上に差があるとも言えるし、
どちらにしろ浦和にとっては、良い経験になったこと
は間違いない。
パスのスピードとか、寄せの早さ、瞬間の判断の早さ、
一つ一つの差が、全体ではやはり大きく、この差は一
朝一夕で埋められるものではない。
一歩一歩改善するしかないということだろう。
万が一浦和が勝ったりしたら、世界的に見れば、あま
りに魅力がないカードとなるところだったので、1-0
というスコアーは、なかなか絶妙なスコアーだったとい
う気もする。
浦和にとっては、可能性を感じさせるものとなったし。

それとは関係ないところで、あのジーコ率いるトルコ
の「フェネルバフチェ」は、欧州チャンピオンズリーグで、
決勝トーナメント進出を決めた。
あのジーコが。
監督しての能力が上がったのか、とは素直に思えない
のは、彼のやり方を見ていたからだ。
考えられるのは、チームの核としてブラジル選手を入れ
たのが効果的だったということだ。
特に「ロベルトカルロス」が利いているのでは、と思
う。
彼なら、ゲーム全体のコントロールが出来、実質監督
のような役割を担うことが出来るのではないか。
と、どこまでもジーコの実力に疑問符なのだが、本当
に有能な監督であったなら、考え方を改めます。

このところ、ずっと休んでいる中村俊輔の「セルティック」
も進出を決めたが、最終試合が対ACミランで、スコアー
も浦和と同じで1-0。
だからなんだという話だが、言いたいことは、ACミラン
というチームは、1-0で勝つことは、2-0、3-0で
勝つのと同じく、余裕を持って試合をコントロールし
ての結果であったり、つまり必ずしも辛勝ではないと
いうことだ。
つまり、浦和が1-0で勝つのは、とても余裕を持っ
てなどと言えないが、ヨーロッパの強豪チームはそれ
ができるのだ。
この辺は、サッカーの歴史文化の違いというものだろ
う。
それにしても、今現在、中村俊輔はどうなってるんだ。
怪我なのか、調子そのものが上がらないのか、今ひと
つ正確な情報が伝わってこない。
コメント

グラタン

2007年12月13日 | 食べ物


洋食の代表的な料理「グラタン」を、改めて食べると
いう機会は、あまりない。
元はフランス語の「gratiner」辺りだと思うが、立派
な日本の食べものだ。
ファミリーレストランのメニューにはありそうだが、街
の洋食屋では今でも出しているのだろうか。
昔は、かなり高級なイメージがあって、ご馳走の部類
だったが、「ラザーニア」などの進出とともに、その
勢力は衰えていったように思える。
今は、店のものというより家庭の味なのだろうか。

何故急に「グラタン」かというと、久しぶりも久しぶ
り(店で食べたのは何十年ぶりかもしれない)、つい
に店の「グラタン」を食べるという機会が訪れたから
だ。
ベシャメルソースのグラタン、具には海老が。
しかも、普通大体どこも同じ味で、それほど美味いと
思うものでもないのだが、美味かったのだ、これが。
店は、蓼科の、山の中というほど山ではないが、夜に
なると周りはしっかり暗くなる林の中。
しかも、そこは洋食屋ではなく本来は蕎麦屋。
看板にはしっかりと「蕎麦」とある。
確かに、昼は蕎麦だけなのだが(人気店で夏場はなか
なか入れないらしい)、夜に予約のみでコース料理を
出しているのだ。
和食中心で、その中に洋食も入り、最後に蕎麦で締め
という、全体で言えば「創作料理」という分類になる
か、そういうものを出すのだ。
そもそもここの御主人が、長く東京で洋食屋をやって
いたので洋食が入るということらしい。
専門だけあって(しかしこれは美味いの保証にはなら
ないが、何故かというと美味くない専門店は五万とあ
るから)、グラタンがいやに美味かったのだ。

りんごをくり抜き、そこに具を詰めるという、舟形の
容器の熱々グラタンという正統派のグラタンではなかっ
たが、これがりんごは焼きりんごとなり、器さら全部
食べられるもので、想像したよりりんごの部分も不味
くなく、全体でなかなか結構なものであった。
基本的に、果物を合わせるのは好きではないが、今回
は納得であった。
海老の質も悪くないし、丁寧に作ったグラタンである
と、グラタンを食べて初めて思った。
それでは他の料理はどうだったかというと、鰹の出汁
をきちんととった炊き合わせ、薄味のものは薄味に、
素材の味を堪能できるような味付けをし、和食として
も充分美味しいものであったと思う。
全体に、素材がちゃんとしているのだ。
これは、一番大事なことなのだが、田舎だと、「えっ」
っと思うようなものに良く出会うので、かなり新鮮で
あった。
結構な品数で、しかも丁寧な料理が出て3800円、
お値打ちであると思う。

長年続けた洋食屋をやめ、ちょっと蓼科でのんびりし
ようと思ったところ、めちゃめちゃ忙しくなってしま
い、本来の目的とは違う状況に戸惑っている、という
のがどうやら本音らしい。
もうシーズンは、夜の営業はしないということだ。
あるレベルを維持するには、そういうことは必要だ。
店の名前は「蕎茶寮いけ野」という。
コメント

カダケス

2007年12月11日 | Weblog


今流れているキャノンの「IXY」のCMで、オダギリ.ジョー
が港町に佇んでいるのがある。
その港町なのだが、いかにも地中海っぽい雰囲気で、
ギリシャとはちょっと違うような(どこがというのは
はっきり判らないが)気がしていたが、偶然そこが「カ
ダケス」であることが判った。
以前にも一度採り上げたことがあるが、スペインはカタ
ルーニャ地方の、フランスとの国境に近い港町だ。
当然地中海に面している。
「ダリ」が住んでたところとしても有名だ。
というより、それで有名か。

バルセロナから、車で2時間くらいだったと思うが、
これは定かではない。
1泊したのだが、良く覚えてない。
印象としては、ちょっと鄙びた港町であったのだが、
実際は違うようだ。
行ったのが6月で、オフシーズンの姿しか見てないか
らそんな印象を持ってしまったようだ。
一度行っただけでは、なかなかその町の全体像はつか
めないということだが、その一度だけでも、実際行く
と、分かったような気になり、その町の一断面に過ぎ
ないのにまるで客観的な全体像であるかのように断定
するのは、人間の悪い癖だ。
と他人事のよう言ったが、何人かに、得意げに「カダケ
ス」は鄙びた、日本で言えば伊豆みたいなところだ、な
どと言ってしまった自分が恥ずかしい。
しかも、この伊豆に似ていると言ったのは、これまた
違う人間なので、他人の受け売りと独断という二重の
間違いを犯していたのだ。
同じようなことは、結構、日常的に知らず知らずの内
にやっているかもしれない。

で、今回何故それが判ったかというと、グーグルアース
で、カダケスで泊まったホテルがどこか確認しようと
したら、そのカダケス案内のホームページに辿り着き、
説明を読んだからだ。
それで、大分こちらのイメージとは違うことが判明し
たのだ。
鄙びたところというより、高級リゾート地として人気
があるらしいのだ。
そもそも泊まったホテルが、カダケスの中では端の方
で、昔ながらの港町の雰囲気が色濃く残っていて(多
分)、そう感じてしまったようである。
結局、グーグルアースではホテルの具体的位置は確認
できなかったのだが、方向的には、ダリの住んでた「卵
ハウス」よりであったようだが、これも確信は持てな
い。
1泊だけでは、この程度の記憶か。

あと、今回知ったことは、「カダケス」というところが、
ダリに限らず多くの芸術家に好まれた土地であるとい
うことだ。
なんと「デュシャン」までも滞在していたらしい。
それを知っていれば。
と言っても、行った時は(13年ほど前)、興味はま
だダリ寄りだったのだ。
あの時知ってれば、というのは、これまた日常的に経
験することである。
コメント

カスレ

2007年12月10日 | サッカー


カスレというのは、フランスの郷土料理で、白インゲン
とコンフィなどの肉を煮込んだ、こってりとした典型
的な田舎料理だ。
星付レストランで食べるようなものではなく、ビストロ
で食べるのがお似合いで、お腹一杯食べたい時には最
適な料理だ。
調理の時は鴨の脂を使うのが本場スタイルらしいが、
カロリーも相当なもので、身体にはあまり良いとは言
えなさそうである。
と、いかにも食べてきたような書き方をしたが、考え
てみると、今までに食べたのは2回だけ。
しかも、その内の一回は、多分あの時食べたのが「カス
レ」だったのだろうというものと、もう一回は、カスレ
はカスレなのだが、肉類は一切なく(食べられたあとで)
豆と、僅かな何かの皮らしきものを食べただけの体験。
つまりその程度のカスレ体験しかないのだが、今はネット
で調べれば、あっという間に情報が集まるので、まる
で昔から良く知ってるかのごとく書くことが出来る。
良いのか悪いのか。

そこで実体験を積もうと思うと、なかなか日本では「カス
レ」を食べさせる店はない。
東京ならいざ知らず、田舎の場合は皆無と言って良い。
なるべく本場に近いものが良いのだが、そういうものは
更に難しくなる。
一般的に、本場そのものの味は、多くの人には受けな
いので、必然的に日本風にアレンジしたものが多くな
る。
中には、あまりにアレンジしすぎて、元とは別物とい
うくらい離れるものもある。
個人的なスタンスは、現地の味は現地の味で、という
ものなので、アレンジしてないのがほしい。
結局、自分で作るということで落ち着く。
自分で作った場合、自分流のアレンジが入るので現地
の味にはならないのだが、そこはこの際不問だ。
一番良いのは、「現地に行って食べる」だが、そんな
ことが出来たらとっくにしている。

そこで、思い出したのが、この前作った「子牛のコン
フィ」。
「鴨のコンフィ」を使う「カスレ」はトゥールーズ風
で割りに一般的。
その代わりに「子牛のコンフィ」を使えば、それなり
にいかにも本場にありそうなものになるのではないか
と思った。
まだ冷凍してある「子牛のコンフィ」がある。
これはなかなか良いアイデアではないか、と一人ほく
そえんだ。
と、考えたのはいいが、未だ実践には至ってない。
作ろうという気はあるのだが、気力が今ひとつ高まっ
て来ないのだ。
ちょっとしたやる気が起こらないという状態なので、
謂わば待ちの状態。
今月中にはなんとかしたいと思っているが。

コメント

ベルイマン

2007年12月09日 | 映画


深夜、何気なくテレビを付けると、いやに深刻そうな
映画をやっていた。
風景も寒そうで、全体のトーンがかなり暗い。
登場人物も、哀しみを湛えてあまり表情がない。
直ぐに「ベルイマン」の映画だとわかった。
そう言えば、NHKで特集していたことを思い出した。
「イングマル.ベルイマン」、正直なところ、ちょっと
深刻すぎて好きではない。
深夜にこんな映画を見ると、どんどん精神の闇に落ち
ていくのではないかと思えてくる。
つい、今日本で何人がこれを見ているのだろうと想像
してしまった。

「叫びとささやき」という彼の代表作なのだが、同じ
北欧の監督「カウリスマキ」の作品と比べるとトーン
は同じだがテイストは対照的だ。
「カウリスマキ」にはユーモアがあるので、深刻な状
況でもどこかとぼけていて脱力できる。
一方「ベルイマン」は、どこまでも真面目で、息を抜
けない。
しかもテーマがはっきりしていて、「孤独」や「家族の
崩壊」を正面から描く。
計算されつくされた破綻のない映像という感じだ。
そこが魅力でもあるのだろうが、こちらとしては
それこそが面白くない。
少々破綻があった方が、思わぬイメージを想起させた
りして刺激的なのだ。
計算外の出来事の方が、魅力的だ。
そして今回見ていて思ったのは、手法が演劇的である
ということ。
舞台の芝居のような演出が多いのだ。
たとえば、ちょっと大袈裟な身振りなど。
感情表現というものかもしれないが、好きではない。
演劇は好きではないので、結局はその好みが出ただけ
とも言えるが、そういうものだからしょうがない。

見たといっても、実は最後の十五分くらいで、これで
は見たと言えないかもしれないが、こちらにとっては
このくらいがちょうどであった。
過去に三作見ていて、この監督のテイストはわかって
いるつもりだったので。
そういえば、北欧には「イプセン」という作家もいた。
共通の演劇的な土壌というものがあるのだろうか。
あと「叫びとささやき」というタイトルから、ムンク
を連想してしまうのも、ちょっとステレオタイプ的か。
コメント

萌えの文化

2007年12月08日 | Weblog


先日、日本の理系の学力レベルが落ちたという結果が
出た(ということになっている)。
そうなると、「技術立国日本」の将来は大丈夫かとい
う話に、当然なってくる。
理系離れというのは、ここのところずっと言われ続け
ている。
多分、そういう傾向にあることは間違いないと思う。
一言、地味な世界だから。

ここでどうしても思い出すのは、その対極のスポーツ
の世界。
華々しい活躍をして、注目され、一躍有名人。
ごく一部の人間が、そういう栄光をつかむ世界である
のだが、自己完結のドラマは、単純なだけ人を引き付
ける。
美しいアスリートの世界(惹句)。
選ばれし天才(これも良く聞く惹句)。
多くの人間が憧れを持つのも、止むを得ない。
一方の理系の場合、唯一と言って良い注目される場は、
「ノーベル賞」くらいなものだ。
殆どは、自分の興味のあることを、こつこつ自分の納
得いくまで求めるといった職人的世界だ。
そして、今までの日本は、その技術者の職人気質的な
部分に依存して来たのだろう。
しかし、世の中、「暗い」「明るい」と単純な二元論
で評価し始めたり、理系のイメージは落ちる一方。
今でこそ、ややアップしてきたが、未だ「オタク」の
世界という見方は根強いのではないか。

一方、スポーツの世界は、マスコミと一体化して隆盛
の一途だ。
たとえ五輪で金メダルを取ったからといって、日本の
文化が豊かになるわけでもなく(関係者はスポーツ文
化が豊かになると言うが、一部のスポーツエリートが
豊かになるだけのこと)、国力が増すわけでもないの
だが、その瞬間の感動に至るステレオタイプのドラマ
を、人は求める。
ナショナリズム的熱狂が、一番興奮させるのは間違い
ない。
「感動を再び」という言葉がどれほど魅力的か。
だから、五輪がスポーツの頂点の如くなっているのだ。
サッカーだったら、WC。
価値の重さを設定して、それに合わせ評価の基準を変
える。
スポーツ全体で、カードゲームのようなものなのだが、
いつしか絶対的なものになるのは、生活がかかってく
るから仕方ないのか。
今や、スポーツは無視できない産業だ。
肥大化、とも言われるが。

だから余計に、スポーツばかりが注目されるのは、問
題ではないのかと思う。
同じ五輪の「技能五輪」の方が、日本の国力において
も、日本人の良さといわれている真面目さを養うにも、
その職人気質的資質を育てる上にも遥かに意味がある
のではないか。
肉体を駆使するスポーツは、放っておいても注目され
る。
しかし技能は、放っておいたら衰退するし、全く注目
もされない。
技能も同じ理系の世界。
最近の理系離れと無関係ではない。
つまり「オタク的世界」にもっと光を当てるべきでは
ないかということなのだ。

いくら「オタク的」といっても、やはり評価されれば
やる気も増すし、そもそもそれだけの価値があると思
う。
勿論、「技能五輪」などは、最適な場である。
それと、何かにつけ評価システムがないと言われる日
本だが、公的なものは相変わらず貧弱だが、私的な評
価システムがすでにあるではないか。
それが「萌え」だ。
つまり「工場萌え」とか「鉄道萌え」、中には「工作
機械萌え」などもあるかもしれないが、その「萌え集団」
は、それら技術に対する評価する人たちでもある。
私的な評価システムを支えているのが、彼ら萌え集団
であるのだ。
アニメだったら普通だが、理系に対する「萌え文化」は、
日本独自のものではないか。
ひょっとすると、こういった文化を大事にするのが、
理系離れを食い止める一番の手立てかもしれない。
と、最近は、「萌え」に対する考え方も改めて、肯定
的に捉えている。

コメント

乾燥肌

2007年12月07日 | Weblog


この時期になると、乾燥肌の人間は痒みと格闘するこ
とになる。
掻き始めると、その刺激によってどんどん痒みの範囲
が広がり、気付いた時には全身真っ赤な状態になって
たりする。
この状態でほっといても、若いうちは回復力もあるの
で元に戻るのだが、年とともにそうはいかなくなる。
皮膚そのものが、いわゆる湿疹状態からただれた状態
に移行する。
こうなるともうどうしようもない。
痛いのか痒いの判らない状態で、かきむしり、ひどく
なる一方。
流石に市販の薬では駄目だと、やっと「皮膚科」に行
こうかということになる。
ということが過去一度あり、行くならその手前で行か
ないとということを学習した。
あの時は本当にひどく、島状にかさぶたのようなもの
が背中一面にでき、兎に角一日中痒みと戦っていた。

そんな痒みの季節、今年もやはり痒くなってきた。
久しぶりに皮膚科に行くか、とかかりつけの医院に行っ
たのだが、どうも休診のようで、定休日ではないが特
別何かがあったのかと、一週間後にまた行くことにし
た。
ところがその一週間後もまた休診であった。
ひょっとしたら閉院か。
というのも、この医院の院長にはちょっとした問題が
あり、そうなるかもしれないという理由があったのだ。
一度、公務執行妨害で逮捕されたということがあるの
だ。
発端はどうということではなく、単なる交通事故のよ
うなものだったらしいのだが、どういうわけか公務執
行妨害に発展してしまった。
新聞により知ったのだが、あの院長だったらやりかね
ないというのは、正直思った。
当然、暫くの間休みだった。
再開は無理かなとも思ったが、二三ヵ月したらやり始
めたので、こちらも何食わぬ顔でやはりこの時期になっ
て行ったものだ。
向こうも、何事もなかったような顔をしていたのだが、
心なしか以前より丁寧になったような。
改心して良くなれば、こちらからすれば結構なことだ。
しかし、そういう事件は一般的にはかなり影響を及ぼ
すようだ。
明らかに患者の数が減ったのだ。
それは、こちらとしては空いていて喜ばしいことだが、
医院としては問題であろう。
再開してから結局一年半くらい経つか。
とうとう、駄目になったか(まだ確認はしてないが)。
そうだとしたら、残念。

というわけで、近くの医院に行ったのだが、そこは内科
で皮膚科もやってるというところなので、この時期だと
インフルエンザの患者が多く、待たされるのだ。
今回も、一時間ほどかかってしまい、その間にインフル
エンザでも移るのでは、と余計な心配までしてしまった。
実際は心配はしてないが、待合室にいると何となく具合
が悪くなるような気がするのは事実だ。
病人モードになってしまう空間なのだろう。
コメント

ナポリタン

2007年12月06日 | 食べ物


正統派「ナポリタン」を食べさせる店というものが、な
かなか見つけられない。
それで、仕方ないので自分で作ることにした。
ここで言う正統派ナポリタンというのは、茹で上げスパ
ゲティーを使わない、ケチャップ味の、ハムも出来れば
プレスハム、あとは玉ねぎピーマンなどの具材で、それ
らをフライパンでざっと炒めたスパゲティーのことだ。
嘗て、「純喫茶」などでは定番メニューであったあれだ。
クラフトの粉チーズとタバスコでもあれば、もうパーフェ
クト。

手元にあるスパゲティーはディチェコのものだが、それ
を使う。
全く意味のない使い方だが、わざわざそのためにママー
スパゲティーを買うのもなんなので。
こしがなくなるくらいに茹で、そこにバターを絡めその
まま放置。
ここもバターを使う必要はなく、できればサラダオイ
ルだ。
なるべく安い材料を使うのが、正統派への道なのだ。
30分以上はそのまま放置した方が良さそうだ。
兎に角この場合、麺のこしはない方が良い。

まずフライパンで、スパゲティー以外の具材をバター
で炒め(手元にマーガリンがないので)、そこに先ほ
どのスパゲティーを投入。
良く炒めたところで、ケチャップ、塩コショウで味付
け。
ケチャップ大目が味のポイント。
ざっと炒めて出来上がりだ。
ステンレスのお皿とか、鋳鉄製のお皿がベストだが、
ないので普通のお皿に盛る。
ゆで卵を脇に添え、これもあればキャベツの千切りも。

さてさてお味の方は。
全体としては、あのナポリタの味だ。
口の周りにケチャップが纏わり付くのも、ナポリタンを
食べる時のお約束。
麺の状態が、イメージしているのとは微妙に違うよう
な気がするが、こんなものであったような気もする。
ナポリタンとして食べれば、それなりに美味いと思う。
しかし、ちょっと違うというのは、やはり事実なのだ。
ここで、何かが違うと感じるのは、記憶の中で統合さ
れた「ナポリタン」のイメージというのは、味以外の
記憶も含め抽象化され、すでにどこにもない味となっ
ているからなのだからと思う。
つまり、「失われた時を求めて」の世界なのだ。
昔食べたものが美味いというのは、殆どがそういうも
のだ。
甘美な記憶にとどめるならば、そのままにしておくの
が一番なのかもしれない。
まあ、「ナポリタン」程度のことであれば、全く問題
にもならないが。
コメント

国技

2007年12月04日 | Weblog


日本の国技(と言われている)相撲は、まるで何事も
なかったかのように、再び、問題発生源の「朝青龍」
本人の人気にすがろうとしている。
結局、一番重要なのは人気なのである。
反省という名の儀式も済ませ、協会は一安心といった
態である。
本質は変わらないので(儀式性がその魅力にも拘らず
スポーツ化している)、また同じような問題が何度か
顕在化して、徐々に衰退していくのが運命なのだろう。
もう一つの国技、野球も、五輪出場権を獲得と大騒ぎ。
と言っても、大騒ぎするほどのことでもなく、当たり
前と言えば当たり前のこと。
そもそも、五輪競技であることのほうが不思議なのだ
から。
しかし、国技だけあって(この場合の国技というのは、
多くの人がそう思っているという程度の意味)、根強
い人気だ。
日本代表とつければ、なんでも盛り上がるというもの
でもないと思うが、実際は、それだけのことで五割り
増しになるのだから、この点ではサッカーに感謝して
も良いのではないか。
全ては、サッカーWC日本代表によって、日本代表イ
コール興奮熱狂と植えつけられたのだから。

そのサッカーだが、オシムの後釜が岡ちゃんに決定し
た。
この人選はどうだろう。
正直なところ、良いのか悪いのか判らない。
ジーコよりは良いとは思うが、実際どういう風にやる
か見てみないことには。
しかし、周りの状況が変化している分、前回よりも大
変であることは間違いない。
WCに行けるだけで満足だったのが前回だとすると、
今は本選で勝つことまで期待されているから。
実際は、WCに行けることの大変さは変わりないのだ
が。

ボールついでにラグビーの関東学院、大麻問題は思っ
たより根深いようだ。
ハンサンミン監督もショックなことだろう。
イギリスで種を仕入れたということだが、アマチュア
スポーツ界もグローバル化したんだと、ある種の感慨
を覚えた。
などと言うと不謹慎なのだろうが、外国では多分、大
麻など当たり前なんだと思う。
興奮剤とか筋肉増量剤とかの方がむしろ体に悪いので
は、と考えれば、大麻など可愛いものだ、という話で
もないし。
単なる好奇心か、それとも大麻に依存しないとやって
けなかったのか。
大麻だけにとどまっていればそれ程でもないが、そこ
が薬の入り口になるから、やはり問題なのだと思う。
この点で、大袈裟に報道する価値はやはりあるのでは
ないか。
コメント

西安

2007年12月03日 | Weblog


中国旅行に行ってきた知り合いに、現地の様子を聞い
てみた。
まず行ったところが「西安」。
どこら辺にあるのかは、当然のことわからない。
昔の「長安」のことであると言われ、ああ「長安」か
ということになるが、場所がどの辺かはやはり判らな
い。
中国の真ん中辺だよと言われ、ああなるほどねとなる
が、なんせ中国のこと、真ん中辺と言ってもその範囲
は広い。
まあ、その辺は大まかにやるのが中国式であろう。
「兵馬俑」があるところだよ、と言われると、ああそ
うなんだ「西安」だったかということで、なんとか落
ち着く。
となると、「兵馬俑」なんかあるから観光客は凄いん
じゃないの、という話になるが、日本人はそれ程多く
なかったそうだ。
日本人以外の、ヨーロッパ辺りの観光客にはもっと受
けそうな感じがするが、と聞くと、やはり多かったよ
うである。

泊まったところは何とか大飯店か?とか、どうでも良
いようなことを色々聞いてくうちに、話題は現地のト
イレについてとなった。
ホテルなどは良いが、田舎に出ると今でもちょっと、
という状態であるようだ。
一応水洗ではあるが、下水管が細いゆえ紙が流せない
ことになってるらしい。
だから使用後の紙は、専用のバケツに入れる。
そのいろんな人の使用後の紙が、しゃがむと目の前に
せまってくる。
とてもゆっくりできる雰囲気ではないということだ。
しかも、ドア無しとか、そのトイレの便器に辿り着く
まで爪先立ちで行かないとならない(汚れているので)
とか、なかなか貴重な体験をしてきたようだ。
あれじゃ、便秘になっちゃうよ、と知り合いは嘆息し
た。
変に水洗にするより、どっぽん便所の方が余程ましだ
というのが我われの結論であった。
それともう一つ、現地の人間は流さないということも
言っていた。
徐々に堆積したそれらを想像すると...。

昔は色々聞いたが、いまでもそんな状況か。
根本的に衛生観念が日本人とは違う、ということを言っ
てた別の知り合いがいたが、そういうことなんだろう。
現地の人間は、大して気にならないから改善もされて
いないと考えた方が良さそうだ。
その点日本人は、潔癖症と言ってもいいくらいの清潔
好きだ。
考えてみれば、こういう環境にいると、いざとなった
時の抵抗力、適応力もなくなるのではないか、とかえっ
て危惧されるくらいのものだ。
柔な環境とも言える。
清潔の方が良いにきまっているが、人間本来の生命力
もなくなっているとしたら、それも問題である。
実際、様々なアレルギーは、寄生虫がいなくなったこ
とにより増えたという説もある。
一ついえるのは、そんな環境で鍛えられている中国と
いう国の人間は逞しいということだ。
こんなとこからも、中国恐るべしという結論が導き出
されるが、本当は、中国のトイレ恐るべしなのである。
コメント

女性ヴォーカル3

2007年12月02日 | 音楽


今ひとつ覚えの悪い映画好きのBが、ミシュランがどう
のこうのというので、貧乏人には関係ないことだから
どうでも良いことであろう、と私は言った。
Bは素直に納得した。
しかし、こんなところでも話題となるミシュランとは、
一体何者か。
と、そんなことはもうすでに充分知られている事なの
で、もう良いが、このところ好きな女性ヴォーカルの
話題で私的に盛り上がっているところなので、Bにも
聞いてみることにした。

「そうですね...」(B)
「...が長いよ、だから誰?」(私)
「そう言えば、僕も、ハスキー系が好きかも知れない
です」(B)
「かもしれないって、自分の事だろう、だから誰よ?」(私)
「ええとですね、まず<スザンヌ.ベガ>?」(B)
「?はいらないだろう、他は?」(私)
「<シャーデー>?も好きです」(B)
「だから、?はいらないよ、自分の好みなんだから自信
を持って言えば良いじゃないの」(私)
「どうも馬鹿にされるんじゃないかと、それを恐れて
いるんですよ」(B)
「確かに、馬鹿にするのは悪い癖ではあるが、これは
好みの話だから、こっちだって<キキ.ディー>とか
挙げてるわけだし」(私)
「その点は渋谷陽一を参考にしてるので、ある程度は
確かなものとは思ってたんですがね」(B)
「じゃあ、尚更自信を持てばいいことだろう」(私)
「では、自信を持って<ジョニ.ミッチェル>も」(B)
「ふむふむ、全体的に言って、こっちの<キキ.ディー>
より本格的な感じだね、渋いよ」(私)
「それと一番好きなのは<リッキー.リー.ジョーンズ>
です」(B)
「名前だけは知ってるけど、そもそも<リッキー.リー.
ジョーンズ>って女性なの?」(私)
「そうですよ、知らなかったんですか?」(B)
「ずっと男で、しかもロックンロールかなにかをやっ
てる人だと思ってたよ」(私)
「そんなのも知らなかったんですか」(B)
「いやあ、これじゃあこっちが馬鹿にされる番だわ」(私)

「全体では、ハスキー系でちょっと影がある、といった
ところか」(私)
「でも、あの目が見えなくなる歌手は好きではないです
よ」(B)
「えっ...、ああアイスランドの歌姫、子供の時に
日本人ってあだ名がついた、ええっと名前が出てこな
い、映画で目が見えなくなるやつね、監督が<ラースフォ
ン.トリアー>で、駄目だ映画のタイトルも出てこな
い」(私)
「何て言いましたっけ」(B)

最近、頻繁に起こるケース。
当然のこと、今ひとつ物覚えの悪いBは思い出せない。
仕方ないので、監督で調べ、映画のタイトルは「ダンサー.
イン.ザ.ダーク」で、歌手は「ビヨーク」である事が
判明した。

「そうそう<ビヨーク>ですよ」(B)
「あそこまで重いと駄目ってことか?」(私)
「そうなんですよ」(B)
「まあ、それも判る気はするが」(私)
コメント

kiki dee

2007年12月01日 | 音楽


T君に、ついでのときにと「Tim Buckley」のcd「lorca」
を頼まれていたが、ついでを無理やり作るということ
で解決した。
こちらもほしいものがあったのだ。
それが「Kiki Dee」。
自分にとっては懐かしのメロディー的なもので、聴く
機会が殆どなく、つまりFMでも滅多にかからないので、
今回買う事にした。
この前お気に入りの「女性ボーカル」などという話を
したお陰で、無性にほしくなってしまったのだ。
それにしても、この「kiki dee」という歌手の知名度は
どれ程のものなのだろうか。
キキ.ディー、名前は印象的だと思うが(少なくと自
分にとっては)。
時代的にひょっとすると「オリビア.ニュートンジョン」
とかぶったのかも知れない。
今回改めて聴いてみると、声質はちょっと似ている。
しかし、「kiki dee」の方が断然良い。
あと考えられるのは、ビジュアルか。
アイドルとしての人気が「オリビア..」は凄かった
から。
本来、人気があるなしは聴くほうとしては全く関係な
く「kiki dee」がお気に入りなのだから、どうでも
良いと言えば良いのだが、もう少し人気があっても良
いのではないかという気持ちはやはりあるのだ。
これが、例えば「brian eno」であるならば、何の不
思議もないのだが、ポップス歌手の話だから、それな
りに人気というものにも関心が向いてしまう。

それにしても、向こうの歌手は総じて歌が上手い。
実力のある歌手がごろごろしているんだろうことは、
簡単に想像がつく。
日本で上手いとされている「ウタダ ヒカル」が太刀
打ちできないのも納得である。
実際どこが上手いのか分からないが、ことポップスに
関してはそのレベルの差はかなりのものだと思う。
「kiki dee」を聴いたら、ついついそんなことを考え
てしまった。

そして、もう一つのT君の「tim buckley」だが、こ
ちらは「kiki dee」どころではないマイナーな歌手で、
夭逝でもあるしで、極ごく一部の間では伝説となって
いるのではないか、と思わせる歌手だ。
「lorca」を聴かせてもらったが、「ドアーズ」のジム.
モリソンを髣髴とさせるヴォーカルで、これまたなか
なか良い。
T君が好きなのも、マイナーであるというのも納得で
ある。
コメント