ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

滝壺ビオトープ

2008年07月13日 | 生き物 自然


「滝壺ビオトープ」のその後。

砂を投入し水が澄んだ頃を見はかり観察すると、「ボウ
フラ」以外に何か虫のようなものがいる。
体長5ミリほどの、形は「マツモムシ」のようにも見
える。
何もしていないのに、すでに水生昆虫が発生したかと、
自然の驚異に感嘆する(飽くまでもこの時点では)。
それにしても、どこから来たのか。
不思議である。
そこでもう少しよく見ようと思い、ルーペで観察する
ことにした。
しかし、拡大された姿は、想像していたものとは全く
違っていた。
どこが「マツモムシ」だ。
それはその手の虫の姿ではなく、エイリアン的な姿を
していたのだった。
ツーっと泳ぐ時は、普段丸めている尻尾のようなもの
を伸ばすのだった。
直線的に泳ぐから、ますます「マツモムシ」系かと思っ
たのだ。

その後、ネットで調べると、何のことはない「ボウフラ」
のその後の蛹でることが判った。
こういうのを「鬼ボウフラ」と言うらしい。
まさか、蛹もこんなに動くとは。
身近な「蚊」であるが、良く知らないことだらけだ。
蚊というだけで、対象から除外されているからこういう
ことになるのだ。
結局この時点では、「ボウフラ」以外いないというこ
とは判った。
まあ、雨水がたまっただけの水溜りだから。

そして、近くの田圃へ水草を採りに行く段となった。
聞いていた場所に行き、水草が生えている田圃を探す。
水草が全く生えていない田圃の方が多い。
そんな中、生えている田圃から水草をバケツに掬う。
ついでにちょっとどろも。
車で来ているので、バケツにほんのちょっとである。
家に戻り、それを「滝壺ビオトープ」に投入。
あわよくば他の水生昆虫も混じっていれば、という期
待は当然持っている。
そして、翌日観察。
最近では、朝の観察がすっかり日課となってしまった。
自分でも、良くやるよと思う。

目を凝らし、じっくり見る。
水草の方は、そう早く定着するわけもないので、何か
「ボウフラ」以外の虫がいないかという観察である。
すると、何かがいた。
これがまた小さく、動きが早い。
体長2ミリほどのその虫は、たまに呼吸のため水面に
顔を出す。
どうやら、今回はこちらの期待する水生昆虫のようで
ある。
しかし、大きさ的には「ノミ」である。
全く見当が付かない。
いつものようにネットで調べてみる。
今のところ怪しいのは「チビゲンゴロウ」というゲン
ゴロウの仲間だ。
ただ、それは大きさと動き方での判断で確証があるわ
けではない。

ということで、「ボウフラ」以外の水生昆虫も増え、徐々
にビオトープの形が整ってきた。
今度は、このあまりに多い「ボウフラ」をなんとかしなく
ては、とまたまた田圃に出動して、姿は「メダカ」(ま
ずメダカではなく何かの稚魚)の小さい魚を採ってき
て放流。
ちゃんと生き延びられるか。
ついでに、何だか知らない巻貝も。
これは、多分外来の巻貝だと思う。
しかし、ビオトープの多様性を保つために。
この限られた滝壺から他に移る可能性はないだろう。
これで、朝の日課はますます充実だ。
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ローカル列車の旅3

2008年07月12日 | Weblog


昨日の続き。

「コクトーズカフェ」というくらいだから、「コクトー」
が好きなのだろうとは誰しも思うところだ。
店は、現在行われている「平成中村座」の「まつもと市
民芸術館」ももう直ぐという場所に位置している。
周辺の雰囲気は、もう少し歌舞伎一色かと思ったが、
普段どおりの静かな平日の昼下がりであった。
店内には、数組の先客がいた。
思ったより、ゆったりした空間である。
それは、むき出しの壁をそのまま使ったロフト風とい
うことと、広さの割りにテーブルが少ないという理由
による。
雰囲気的には、コクトー風である。
というのはこじ付けで、吉祥寺や下北沢辺りにありそ
うな、地元の芸術志向の人間が集まってきそうな店で
ある。
いい雰囲気ではある。
しかし、店内にコクトーを思わすものは全く見つけら
れなかった。
コクトーのポスターでも貼ってあれば、なるほどねと
いうことになるのだが。

営業形態は、カフェというよりレストランのようだ。
イタリアン的フレンチ的料理という、最近良く見かけ
る「いいとこ取り」或いは「どっちつかず」の料理を
提供する店であるようだ。
個人的には、どちらかに徹底した料理を望むのだが、
そういう店は特に田舎では難しい。
「カフェ飯」という分類でみれば、別になんでもあり
だが。

チキンのランチを頼む。
オードブルのプレートとバターライスつきチキンのソ
テーがその内容。
オードブルには、スペイン風オムレツやラタトゥイユ
味スープがあったりで、予想通りのフュージョンであっ
た。
量的には結構なもの。
味のほうは、可もなく不可もなくというところか。
あまりの暑さと、脱水気味もあり、ハイネケンの生ビー
ルなども頼んでしまった。
昼ビールと言うのは、背徳的快感である。
と食べ終わって、外の様子を窺うと、どうも空模様が
怪しい。
傘など用意していないので、早めに駅に行かなくては、
と会計をささっと済ませ駅に向かっていくと、ポツリ
と雨粒が。
しかし、まだ本降りではない。

駅に到着して、次の電車の時刻を確認すると、まだ30
分ほどある。
そこで駅ビルの本屋に行く。
本屋で本を買うという機会は、殆どが今回のような機
会だけである。
何か薄い文庫本(厚いのは現況では遠慮したい)はな
いかと探す。
前回このケースでは、カフカの「変身」を買った。
しかし、その時はたまたま「変身」だけは読んでなく
て、調度いいということになったのだ。
因みに、映画と比較するために再度読み出した「アメ
リカ」は無事読み終わった。

薄くて、しかも興味を引くような本は中々見つけられ
ない。
小説は、とりあえず要らない。
まず厚さだけで選考する。
すると厚さといい内容といい、最適なものが見つかっ
た。
それは、ランボーの「地獄の季節」。
スタローンではなく詩人のランボーだ。
詩だったら、飛び飛びでも関係ないし、いつでも取り
出せる薄さだし、有名な割りに読んだこともないしと
正にうってつけの本であった。
当然、値段もお手頃。
というわけで、今現在、ランボーの「地獄の季節」が
いつでも出番とばかりに、バッグの中で控えている。

その後、雨は本格的になり、結局ずぶぬれ状態で家ま
で歩くこととなった(走りたいところだったが、走る
余力はなかった)。

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ローカル列車の旅2

2008年07月11日 | 生き物 自然


昨日の続き。

次の松本行きの列車まで、一時間後ほどあるので(大
体一時間に一本という割合)、その間「梓川」周辺を
探索することにする。
数分で河原に到着。
河原には散策コースのような道があり、上流に向かって
続いている。
それに沿って歩く。
「クロツバメシジミ」の食草となる「ツメレンゲ」が
生える環境とは違っているようで、普通の河原の草む
らが広がっている。
そんな環境が「ミヤマシジミ」には適しているようで、
シジミ蝶は殆どその「ミヤマシジミ」だった。
しかし、ここではこんなに多くても、この蝶も全国的
には数が減っている蝶である。

「ミヤマシジミ」を撮って他の何かはいないかと見渡
すが、蝶の姿はあまり見かけない。
木といえば、「ニセアカシア」が殆どなので、種類は
限られそうである。
蝶以外だと、トンボの姿が目に付く。
一番普通に見かける、「ウスバキトンボ」の発生も始
まったようだ。
そんな中、久しぶりに「ミヤマアカネ」を発見した。
このトンボは、昔はいたるところで見られたのだが、
今ではもう普通種ではなくなった。
地元では「ヤグルマトンボ」(羽が矢車を連想させる
からだと思う)として親しまれていたものである(個
人的にかもしれないが)。
田舎にいても、年に数回しか見かけない「ミヤマアカ
ネ」、やっと撮る機会が訪れた。
この固体は、羽化して間もなくという感じで、羽が柔
らかそうでみずみずしい。
こういう河原は(護岸工事を昔終了したところ)、人
為的な影響を受けにくいから、割りに生態系は保たれ
ているようだ。

あっという間に、電車の時間になったので駅に戻る。
それにしても、思ったより河原は紫外線が強そうだ。
曇り空にも拘らず、結構暑かった。
帽子代わりになる物を用意してなかったので、かなり
頭中心にやられてしまった。
電車の冷房で、熱くなった頭と体を冷やす。
こういう場合は冷房車もありがたい(勝手なものであ
るが)。
ローカル列車の旅は、10分ほどで終了。

松本に着いて用を済ませ、さあお昼の時間だ。
ということでお決まりのカフェ「クリヨードヴァン」に
行くのだが、一時頃だというのに、店は閉まっていた。
準備中の看板が出ていて、なにやら店内もがたがたし
ていた。
仕方ないので、どこにしようか考える。
今日は代替案は用意してなかった。
こういう場合、迷い始めると、難民状態になり最終
的にろくでもないところに漂着する、ものである。
過去、何度も繰り返すと流石に対処法ができるもので、
さっと駅蕎麦でも食べて済ますのが一番ということに
なるのだが、歩き疲れて休みたいという欲求が今回は
強かった。
「フライングダッチマン」にはなりたくないので、候
補を思い浮かべる。
そうだ、カフェつながりで「コクトーズカフェ」とい
うのがあった。
以前から名前には惹かれていたのだ。
ということでいい機会だと思いそこに向かった。
確か、やっている筈である。



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ローカル列車の旅

2008年07月10日 | Weblog


ちょとした用事があり松本へ。
以前であれば、全く考えにも上らなかったが、今はこ
の距離(40キロほど)であれば迷いなく電車を利用
する。
原油高は、明らかに我々の行行動様式を変えつつある。
これをきっかけに、原油に頼らない生活が定着するな
ら、かなり意味のあるこであると思うが、一番良いの
は、早く代替エネルギーを開発して、原油国の王族、
ロシアの石油マフィア、アメリカの石油資本、そして
それらに投資する投資家の天国が消滅することである。

話がそれた、ただ電車に乗るだけの話だった。
今回、ついでにちょっと足を伸ばし、松本から大糸線
で四つ目の駅までい行こうと思っているのだ。
そこは、梓川の脇にある駅なのだ。
松本で、2両編成のこれぞローカルといった電車に乗
り換える。
因みに大糸線は、安曇野を走る電車だ。
この2両編成の電車、乗り降りする時は、自分で開閉
ボタンを押すシステムとなっている。
まるで、パリのメトロではないか。
しかも、こちらの方が圧倒的にきれいだ。

一番先頭に乗ってちょっとした「鉄ちゃん」気分でも
味わおうかと思ったら、ちょっと様子が変だった。
運転席に、関係者が4人もいるのだ。
そのうち一人は運転手。
どうやら、その運転手の試験をしているようなのだ。
本物の「鉄ちゃん」なら、泣いて喜ぶ状況ではないか。
当然、こちらもその様子をずっと見ている。
こんなに視線を浴びたらやりにくいだろうな、などと
他人事のように思う。
しかし、ローカル列車の旅はあっという間に終わる。
四つ目の駅と言っても、駅と駅の間隔は二三分なのだ。
雰囲気のある昔の駅舎を出る。
無人かと思ったら、意外にもちゃんと一人いた。

それにしても、電車だと、何故旅気分が味わえるのだ
ろうか。
この辺だって、何回かは車で通過している。
まるっきり初めてというわけではないが、電車で来て
降りると、完全に初めての土地に降り立った気分とな
る。
ここに至るまで、見ている風景が車とは違うというの
もあるし、途中の人の乗り降りも日常目にするもので
はないし、電車そのものが、普段の乗り物とは違うし
(自家用車だったら<家ー日常>を引きずっているよ
うなものだから)と、車では味わえない非日常的要素
が多いからということになるのだろうか。
やはり、旅気分を味わうのなら電車である。

といっても、この周辺は松本の郊外で、特別鄙びたと
ころではなく田舎ではよくある田園地帯に新興住宅と
いった様子のところだ。
電車の中では、冷房が効き過ぎるほど効いていたので、
外に出たらえらく暑い。
田舎の電車なんだから、窓全開の風電車にすれば、な
どと思うのはたまに乗る人の勝手な言い分か。
河原まで数十メートル。
そう言えば、ホームから河原を覗けるくらいの位置関
係だった。
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B級SF映画

2008年07月08日 | 映画


昨日、BS2で、「B級SF」的映画をやっていた。
最後の30分ほど見たのだが、その限りでは、結構面
白かった。
どこかで見たことある役者というか、見て直ぐ分かっ
たのだが、「探偵モンク」のモンクが出ていたりと、
関係ない部分でも楽しめた。
自分で買ってまでして見るということは絶対ないが、
テレビでやっていたら見るという映画は、圧倒的にこ
のてのB級的映画かもしれない。
いつも、「ブレッソン」とか「ストロ-ブ=ユイレ」
を見ているわけではないのだ。

逆に、テレビでやってもまず見ないのは、真面目な映
画の範疇に属する文芸大作的な映画。
例えば、と言いたいところだが、適当なものが思い出
せないが、邦画でよくある「高倉健」が出ていたり
「吉永小百合」なんかが出ているあの手の映画だ。
それと、大作SF映画もまず見ない。
「ロードオブザリング」がその代表。
過去の作品なら「未知との遭遇」とか「ET」など。
15分くらいは見たか、という程度の興味しかないの
だ。
はっきり言って、幅は狭い。
昔は、人並みにそういう映画も好きだったのだが、い
つからか面白くなくなった。

で、そのB級SF映画だが、基本的にパロディー仕立
てであるというのが絶対条件。
でないと、単にチープでせこいSF映画となってしま
う。
昔のテレビでやっていた「スタートレック」を、その
まま映画館で見せられたら噴飯物であろう。
あの時代だからこそあれは成立したものなのだ。
安っぽいスターウォーズモドキの映画はいっぱいある
が、たまたま深夜放送でかかってるのに引っかかり、
何気なし見始め、結果、無性に腹立たしくなったなん
て経験は多くの人がしているはずだ。

決して何度も見るという映画ではないが、その時に面
白いと思えばそれで充分なB級SF映画、具体的に何
があったかと思い出そうとしても中々思い出せない。
それがまた、この手の映画の悲しい宿命である。
記憶にも残らない映画。
或いは、タイトルがごっちゃになるという、まともな
扱いも受けない映画。
これは一つ、ジョン.ウォータースの「セシルB、ザ 
シネマウォーズ」で鎮魂してもらわないといけない。

一つ思いだした、「スペース.トラッカー」だ。
これぞB級SF映画という、誰が見ても疑問の余地の
ない映画。
確か「デニス.ホッパー」が出ていたと思った。
それにしても、名脇役というか典型的性格俳優の「デ
ニス.ホッパー」は、実に多くのB級映画に出ている。
本当に詰まらないのも多いが、その中で面白いのに
当ると、ちょっとした宝探し的な気分も味わえ、楽し
い。
「アメリカンウェイ」なんてのも好きな映画だった。
で、この「スパース.トラッカー」だが、宇宙のトラッ
ク野郎の話で、後は良く覚えてない。
兎に角、ふざけた話であることは間違いない。
そう言えば、最近では「ファンタスティックフォー」と
いうのがあった。
これがまた不人気で、最悪映画の代表のように言われ
ているらしい。
日本でも、概ね不評。
しかし、個人的には「ロードオブザリング」や「パイレ
ーツオブ...」なんかよりは面白いと思う。
何故、ここまで不評なのか不思議でしょうがない。
ただ、どちらにしろ映画館で見ようとは絶対に思わない。

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湖のランスロ

2008年07月07日 | 映画


映画少年改めゲロゲロ少年Yが、貸したDVD、ブレッ
ソンの「湖のランスロ」を返しに来た。
そして第一声。

「やっぱり、ブレッソン最高ですね、ひょっとしたら
これが自分のなかでは一番かもしれないです」(Y)

随分の入れ込みようだ。
しかし、こちらとしては、また始まったか、である。

「兎に角、音が凄いですね」(Y)

何の話かというと、騎士がかぶる甲冑などが触れ合う
音であったり、槍がぶつかる音をさしているのだ。
ここで、この映画の大まかな内容を説明すると、題材
は「アーサー王の聖杯伝説」、モンティ.パイソンの
「ホーリーグレイル」と同じだ。
あの映画の中にも「ランスロ」は出てくるが、英語な
ので「ランスロット」となっている。
実は、お笑い映画の中では、一番好きかもしれない。
「ホーリーグレイル」はふざけた映画で、常識人が見
たらご立腹であろうが、こちらの「湖のランスロ」は
そういうことは絶対ない。
しかし、わけ分からないとなる可能性は大である。

この映画は、聖杯を探しに行った騎士の冒険物語とか
そういうものではなく、聖杯が見つからなかったその
後の話が主で、しかも、物語としての展開は判り辛く、
いつものことながら「劇的」という演出は一切なく、
唐突に思える画面展開の連続で、スカッとするとかすっ
きりするというものとは全く無縁である。
反娯楽映画であることは間違いない。
ランスロと王妃との不倫関係、王に対する裏切り、騎
士同士の戦い、一応一般的な映画の娯楽要素はあるの
だが、それが娯楽性をまとうような演出をしていない
ので、結果、娯楽映画とは無縁のものとなっているの
だが、それでは何があるのかというと、断片化された
部分であり、誇張化された音である。
Yが言った、「音が凄いですね」というのも確かに当っ
ていることは当っているのだ。

「リアルな映画というのは、むしろこういうのかも知
れないですよ」(Y)
「そのリアルってどういう意味で使ってるの」(私)
「つまり、いかにも本当らしい演出で本当の出来事の
ような内容で、作り物という事実を隠蔽するような映
画とは違うという意味で」(Y)

何だか、またわけの分からないことを言い出した。

「つまり、映画は作り物であるという事実を前面に押
し出し、いかにも全てを描いているという錯覚も与え
ず、敢えて部分を描くことによって、描かれてない全
体、世界を描くというブレッソンの姿勢あってこそ、
真にリアルなものは描けるという意味か」(私)

意訳もここまで来ると芸である。

「そういうことですよ」(Y)

と、とりあえずまとめようというこちらの思惑で何と
なく落ち着いたが、一見チープな史劇のような「湖の
ランスロ」、そのチープな外見とは対照的に、視線を
ぐらつかせる、脱臼させる、刺激に満ちた映画である
ことは間違いないのである。
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ビオトープ

2008年07月06日 | 生き物 自然


以前、「ハナアブ」の幼虫(しっぽ状の呼吸管がある
蛆虫)が大発生した滝つぼ(水を流してない)のその
後だが、結局、幼虫は全て何かに食べられ(犯人はア
シナガバチではないかと推定している)、蛹になるこ
ともなく消滅した。
今いるのは、「ぼうふら」のみである。
これでは、単なる「どぶ」である。
循環するわけでもない単なる水溜りなので、こういう
事態も想定内なのだが、何か良い方法はないかとずっ
と考えていた(正確には、考えていたわけではなく、
気になっていただった)。

僅か50センチ四方の水溜りで、しかも深さは15セ
ンチほど。
そこで、どうにかビオトープのようには出来ないかと
考えた。
となると何が必要か。
常に新しい水が流入することは、不可能。
自然の雨水が頼りだ。
どう考えても、「めだか」がすめるような環境にはな
らない。
しかし、「トンボ」ならばどうだろうか。
餌は、「ぼうふら」が絶えず発生するだろうから大丈
夫だろうし、汚い水たまりのような環境を好むトンボ
もいるし、いけるのではないか考えた。
となると、足らないのは、水底の土だろう。
ちょうど、滝つぼの側面に土溜まりがあったのでそれ
を崩して投入した。
すると、その土溜まりは「ワラジムシ」(ダンゴムシ
の丸まらないようなあれ)の巣になっていたようで、
一緒に水の中に投入されてしまった。
わらわら出てきた。
ちょっと気の毒であったが、今回は赦してもらおう。
確かに「ワラジムシ」の数が多いとは思っていたが、
こんなところに巣を作っていたのだ。
初めての光景であった。

これで土は入れた。
水の中ではどろである。
こういう場合、土ばかりではなく砂なども必要と、何
かで見たのか聞いた事がある。
微生物の住める環境としては、それのが良さそうであ
る。
さてその砂だが。
わざわざ買うのもなんだし、と考えたら不要な砂が身
近にあったのを思い出した。
これで、底は完成。
後足らないのは。
基本コンセプトは、ありのままの自然。
水草だ。
しかし、水草はどこに。

この地方には、田圃は多い。
しかし、農薬のせいであまり水草も生えない。
当然、水生昆虫もいないし、生き物の気配はあまりし
ない。
ところが、この前甥っ子がそういう今の田圃ではない
田圃を見つけてきた。
「今時水生昆虫のいる田圃はないよ」と言ったら、ちゃ
んと証拠写真を撮ってきていた。
久しぶりに見る「ゲンゴロウ」の仲間の水生昆虫だっ
た。
そこは「ミジンコ」も発生していて、どうやら、昔な
がらの田圃の状態を保っているようなのだ。
農薬を使わない田圃があったことに、なにやらほっと
する。

というわけで、水草は、その田圃で拝借しようと思っ
ている。
何だか、昔の夏休みの課題の理科研究のようなことに
なってきた。
違いは、当時はいやいやであったが、今は興味津々な
ところだ。
当時、これだけのやる気があったらなあ、と思うが、
後の祭りなのである。
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スティーヴ.ライヒ

2008年07月05日 | 音楽


NHK教育で、「スティーヴ.ライヒ」特集をやって
いたので、じっくり見てしまった。
ついこの間行われた「東京オペラシティー」での公演
を中心に、初の発表となる「DANIEL VARIATIONS」の
出来るまでの背景などの解説も交え、解り易い構成に
なっていた。
言わずと知れた「ミニマルミュージック」の中心的人
物の「スティーヴ.ライヒ」の作品は、聴きなれない
人にとっては、同じフレーズの繰り返しで、一体何が
良いのかさっぱり解らない、などと言われそうだが、
これが実に心地良いのだ。

同じリズム、フレーズの繰り返しと言えば、太鼓など
が身近な例として思い出される。
聴いているうちに、トランス状態に近くなりある種の
快感を呼び起こす。
バリの「ガムラン」などもそうであろう。
それを目的に戦略的に作られた「ケチャックダンス」
なんてのもあるし。
それらに共通するのは、原初性とうるささだが、そう
いう部分を洗練させたのが「ミニマルミュージック」
なのではないか。
洗練させた、人によってはわざわざ難しくしたとも言
われかねないが、元々そういのが好きだからしょうが
ない。
心地よくなるのも頷けるというものだ。

「DANIEL VARIATIONS」は、取材中に殺されたジャー
ナリストの遺族から委嘱された曲ということだが、知
らないで聴くと、多分「フィリップ.グラス」か「ス
ティーヴ.ライヒ」のどちらかの曲、と答えるだろう。
ヴォーカルの部分が「フィリップ.グラス」を思わせ
たのだ。

次の曲は「MUSIC FOR 18 MUSICIANS」。
イメージする「スティーヴ.ライヒ」の音楽そのもの
という感じである。
この曲がリトマス試験紙「スティーヴ.ライヒ」版に
なると思う。
それにしても「ブライアン.イーノ」のアルバムタイトル、
「MUSIC FOR FILMS」と「MUSIC FOR AIRPORTS」
はここから拝借したのか。
影響を受けたのは間違いないらしいが。

最後の曲は「DIFFERENT TRAINS」。
これだけは、日本人のカルテットの演奏。
「クロノスカルテット」版を聴いていたので、一番な
じみの曲だったが、そもそもが「クロノスカルテット」
のために作られたということを今「ウィキペディア」
で知った。
なるほどね。
しかも、ジャズと違って楽譜どおりでクロノス版と曲が
同じだ(当たり前と言えば当たり前だが)。
それはいいが、この曲が「ユダヤ人」の問題をテーマに
した曲であることをこの番組で初めて知った。
基本的に解説書を読まないので、曲のテーマとかそう
いうものは殆ど知らない。
よく言えば、純粋に音楽だけを聴くのである。
そんな聴き方だから、こういう背景を知るとちょっと
新鮮な驚きがある。
「TRAIN」が収容所に向かう列車を指していたとか、そ
してそれが自由の国アメリカの列車になり、シカゴか
らニューヨーク、ニューヨークからロス、と安住の地
を求めて彷徨う。
最後は天使の地を目指すというのは、ある種の皮肉か、
といろいろ意味を探るのはそれなりに面白いが、やは
り個人的には、純粋に音楽そのものを、というところ
に戻りたい。
コメント

カレー文化

2008年07月04日 | 食べ物


この前、甥っ子とカレー屋に行ったのだが、その時甥っ
子が、以前ここでも触れたことがある同じ疑問を感じ
ていることがわかった。
それは、何故この周辺に本場スタイルのカレー屋が増
えたのかということ。
そこで、「カレーシンジケート」の話をしてやって、
一つ一つの店の成り立ちを検証した。
と言っても、全ては推論。
しかし、甥っ子は納得していたので良しである。
今回行ったところは、一番古株の店なので、「カレー
シンジケート」以前の店だから問題はないだろう、と
何が問題なのか判らないが、ここでもとりあえず納得
して、「ほうれん草とマトンのカレー」を食べた。

多分、激戦地の東京などはすでに飽和状態なので、田
舎の方に押し出されて来たのではないかと思うが、そ
うなると、同じような条件の地方都市も同じ現象が見
られるはずである。
もしそうであれば、この推論は(以前のカレーシンジ
ケートの記事)正しいことになるが、それを検証する
手立てがない。
まあ、推論して悦に入っている内が花か。

しかし、そんな本場スタイルの店も、すでに二軒は無
くなっている。
もう、飽和状態であると思う。
周りを見渡しても、「家庭のカレー」好きはいても、
本場のカレーを好むといった人間はあまりいない。
下手をすれば「ナン」すら知らないのではないか。
未だに、スパイシー=辛いだから、なかなか需要が増
えるような状況ではない。

一般的に言って、地方の人間ほど食に対しては保守的
である(食に限らずだが)。
新たのものを試そうという基本姿勢がないのだ。
だから、自ら開発ということもなく、他人の反応を見
てから決めるというのが大体の態度である。
要するに、冒険はしないということ。
食べ物程度だったら高が知れていると思うが、そんな
ことでも人はしないものなのだ。
保守というものはそういうことである、と言ってしま
えばそういうことなのだろうが。

しかし、決して新しいものに飛びつかないというわけ
ではない。
そこは、むしろ飛びつく(飽きるのも早いが)。
例えば、コンビニの新商品とか、流行り物とか、行列
のできる何とかとかは。
つまり、与えられる情報には敏感なのである。
ただ、その情報が自分の持っている文化以内であると
いう条件が付く。
結局、これって、よく言われる日本人の特徴そのもの
ではないか。
そんな日本人の、ちょっと保守性を強めたのが地方の
人間。
なんだか、あまりに当たり前な話で、今となってはこ
んなことを書いたことに後悔している自分がいた。

コメント

山散策

2008年07月03日 | 生き物 自然


天気も良く、マイフィールドに出かける。
定点観測ではないが、同じところに何度も行くのは、
そこにどんなものが生息していのかをよりよく知るた
めである。
一週間ずれただけで、この前はわんさかいた蝶が、全
く姿を見せないなんてことも当たり前の世界だから。
と、まるで学術調査のような言い方だが、一部気分と
してはそんなものがあるのかもしれない。
いうなれば、学術調査ごっこか。
もう少し本格派となると、しっかり記録してどこに何が
いたというのをはっきりさせるのだろうが、そこはそれ、
まったく気分だけの世界なので、そういうことは一切
しない。
全ては、想像の世界。

マイフィールドと言ったのは、強ち間違いともいえな
い。
というのも、未だ嘗て、この道を歩いている人と出く
わしたこがないから。
たまに、その季節に、軽トラックの山菜取りのおじさ
んおばさんとすれ違うくらいだ。
嘗ては、皆良く歩いた道なのだが、本当に今は、人の
姿を見ない道となってしまった。
まあ、こちらとしては人がいない方が良いのだが、そ
れにしても歩かなくなったと思う。
田舎の人間は、山で散策という行動様式は、もう何十
年も前に捨て去ったようだ。

初夏という日差しだが、山の空気はまだ冷気を含んで
いる。
紫外線は間違いなく強いのだが、Tシャツ一枚に風を
受けると、体が知らず知らずの内に冷えてくる。
花もまだ咲いてないのが多く、蝶の楽園となるにはち
ょっと早いようだ。
そんな中、やたらと目立ったのは「イチモンジチョウ」。
全部で20頭以上はいた。
この前庭でゲットした「アサマイチモンジ」ではなく、
見たところ全て「イチモンジチョウ」であった。
そうやって考えると、この前の「アサマイチモンジ」は、
つくづく僥倖であった。

今回は「獣糞」があちこちにあり、そこに蝶が群がっ
ている光景をいくつも目にした。
いたのは、こういう「獣糞」にはおなじみの、ヒカゲ
チョウの仲間、特に「キマダラヒカゲ」である。
今までと違うのは、その「獣糞」に鹿のものが混じっ
ていたことだ。
前は、あまり見かけなかったが、最近増えているとは
聞いてていたが、実際その痕跡を目にすると、そうい
う現実を実感する。
注意してみると、草の、ある丈以上の部分が食べられ
ているものが数多くある。
北海道などでは、食害が拡大しているということだが、
同じようなことがすでにこの地方でも起きているとい
うことなのだろう。

結局、期待していたような蝶はいなかった。
しかし、歩くのは歩いたので、相当運動したという気
分である。
間伐しているところも見受けられたし、環境的には良
くなっていきそうなので、マイフィールドとしてこの
先も通うことになりそうだ。

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現場中継

2008年07月01日 | Weblog


中国の「強姦殺人事件」による暴動は、一体どの程度
の規模なのかはっきり分からないが、起きたという事
実が伝えられたというか知られただけでも、嘗てとは
大きな違いである。
中国も、インターネットを徹底的に取り締まることは
無理なのだから、もう少し考えた方がいい。
当局は、沈静したと発表したが、果たしてどうなのか。
あまり露骨にやると、オリンピックの時、またいろい
ろな問題を抱えることになる。

一般人による現場中継も、こういう言論統制の国だと
非常に有効である。
しかし、これが日本場合はどうなのかだ。
たとえば、この前の秋葉原。
人命救助活動をしている様子を携帯で生中継の光景
は、はっきり言ってみっともないものである。
しかしこれは、有名人に向かって携帯をかざす行為
(まるで新興宗教のような)と同じで、当人にとっ
ては価値のある映像なのである。
つまり、この映像を「オーッ」と喜ぶ受け取る側がい
ての行為なのだから、両者にとって価値があり成立し
ているのだ。
現場が悲惨であればあるほど価値が高い。
ひどい交通事故の現場ほど、情報としてのインパクト
が強い(イコール価値が高い)のと同じことだ。

良識の問題としては、平気で撮る人間は許せないとい
うことになる。
しかも一般人がとなるのだが、実は、この行為はテレ
ビなどのマスコミが普段普通にやっていることと同じ
なのである。
緊迫した現場の生中継。
或いは、スクープという名の犯人逮捕の瞬間。
報道という名で何度も見せ付けられた映像を、一般人
がやってるに過ぎないのだ。
現場にたまたま居合わせた人間が、報道記者に早変わ
りというわけだ。

例えば、凶悪犯を護送する車を、わざわざヘリコプター
を使って中継したりするが、これは果たしてニュース
価値があるのか。
或いは、被害者の家族に対するインタビュー。
これらは、視聴者の野次馬根性による好奇心を満足さ
せるためのものに過ぎないと思うが、当たり前のよう
に報道し続けていることから、それらに価値があると
しているのだろう。
となると、一般人がやっていることに対して批判は出
来ない。
完全に、同じ穴の狢なのだから。
違いは、プロかそうでないかということだけだ。
この場合のプロというのは、それを職業としているか
どうかという意味。
本来なら、ジャーナリストであるかどうかという意味
が重要なのだろうが、現状を見る限り、それはない。
既得権益を確保するために、マスコミはそういう行為
を批判するだろうが、全く説得力を持たないのが、何
とも哀しいところである。
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