異常の構造, 木村敏, 講談社現代新書 331, 1973年
・「異常とはどういうことか?」 この問いに精神病理学の立場から迫る。
・いわゆる「正常者」にとっては、異常かどうかの判定は直感的に容易にできるが、いざそれを、どこがどう異常なのかを言葉で説明するのは難しい問題。
・骨太な内容。哲学的香りのする抽象的な議論がちょくちょく出てきて難しい部分もあり。
・精神分裂病(統合失調症)の原因について、筆者は環境説の立場のようですが、その記述にちょっとひっかかりを感じる。
・「満腹しきっているときには、私たちは食物に対してあまり関心を示さない。欲求は欠乏の函数である。現代の社会が異常な現象に対してこれほどまでに強い関心を示すということは、私たちがなんらかの意味で異常に飢えていることを意味しているのではなかろうか。(中略)逆に現代の社会は「正常すぎる」ために異常を求めているのかもしれないのである。」p.8
・「要するに、異常で例外的な事態が不安をひきおこすのは、安らかに正常性の地位に君臨しているはずの規則性と合理性とが、この例外的事態を十分に自己の支配下におさめえないような場合が生じたときである。つまりその例外が、合理性とは原理的に相容れない、合理化への道がアプリオリに閉ざされた非合理の姿で現れる場合である。」p.12
・「科学とは、私たち人間が自然を支配しようとする意志から生まれてきたものである。」p.13
・「さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人と他の人びととの間の関係の異常として現れてくる。」p.16
・「私たちは、いかなる形においてであるにせよ、事物のそれ自体において真である姿をゆがめ、これを隠蔽することなしには存続しえない定めを負うている。ここに人類の原罪がある。しかし、しょせん罪あるものならば、みずからの罪を冷徹に見透してみずからを断罪するほうがいさぎよいのではないか。虚構は、それがいかに避けられぬものであるとはいえ、虚構として曝露されなくてはならないのではないか。これが本書の意図である。」p.18
・「すなわち、患者はさしあたってまず苦痛から逃れることを希望する。しかし、医師の立場はここで必ずしも患者の立場と一致しない。医師は患者の苦痛そのものよりも、その基礎にあるにちがいない病変の発見により重点を置くからである。」p.23
・「つまりふつうならば常識の支配下にあるはずのことがらが、根底から非常識によって支配されてしまっているという形で出現してきた場合、私たちはこれを非常におかしなこととして、ふつうには起こりえない異常なこととして経験することになるだろう。」p.37
・「砂糖をなめたときに感じとったのと同じ感触が、ヴァイオリンの音色を聞いたときにも感じとられ、そこで私たちは私たちにとってより親しいほうの味覚的な表現を聴覚にも転用して、「甘い」音色ということをいうのだろう。」p.42
・「ことに特徴的なのは抽象的で難解ないいまわしが多用されることであって、ときにはふつうの国語にはないような新奇な単語が創作されたり、ある言葉が本来の意味とはまったく無関係な独創的な意味で用いられたりすることもある。」p.53
・「――周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。――なにもかも、すこし違っているみたいな感じ。なんだか、すべてがさかさまになっているみたいな気がする。」p.58
・「面接のたびに患者から再三再四もち出される「どうしたらいいでしょう」という質問は、私たちが通常ほとんど疑問にも思わず、意識することすらないような、日常生活の基本的ないとなみの全般にわたっていた。」p.59
・「なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか――」p.78
・「ちなみに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、小・中学校の教師、それも教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数がめだって多いようである。」p.102
・「実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験をきっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のように十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかということが、この事実によく示されている。」p.103
・「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である。」p.109
・「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる。」p.111
・「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである。」p.115
・「以上において提出した常識的日常性の世界に関する三原理は、すでに見てきたように相互に深く入りくみあっている。そこでこれを一つにまとめて、単一の公式で表現するとどうなるか。(中略)この公式は形の上ではこの上なく単純なものである。
1 = 1
これが私たちの「世界公式」にほかならない。」p.119
・「患者から見れば、私の質問こそ「非常識」と感じられたのではなかろうか。」p.140
・「患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言いあらわしているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。」p.140
・「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない。」p.141
・「まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか。」p.145
・「「異常者」は、「正常者」によって構成されている合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない。」p.157
・「分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認められる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可能ということだといえるだろう。」p.174
・「私は、ふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者とはもともとひと一倍すぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗して分裂病におちいることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素質」ならば、十分に考えられることだろう。」p.176
・「アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にたとえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。」p.179
・「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。」p.180
・「分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。」p.182
~~~~~~~
・古本なものでページの合間にレシートがはさまっていました。写真では薄くて見づらいですが、「毎度有難うございます 室蘭工業大学 生活協同組合 73-10-26」の印字があります。その日付にビックリ。今から34年前、私が生まれた約2ヶ月後のレシートです。電話番号5桁だし。こんなに古いレシートって見た記憶がないなぁ。おそらく前所有者は工大周辺にその当時からずっと住んでいる方なんでしょうね。どんな人だかちょっと気になります。レシートは元のまま本にはさみ、再び眠りへ。次にまた発見される時は来るのでしょうか。
・「異常とはどういうことか?」 この問いに精神病理学の立場から迫る。
・いわゆる「正常者」にとっては、異常かどうかの判定は直感的に容易にできるが、いざそれを、どこがどう異常なのかを言葉で説明するのは難しい問題。
・骨太な内容。哲学的香りのする抽象的な議論がちょくちょく出てきて難しい部分もあり。
・精神分裂病(統合失調症)の原因について、筆者は環境説の立場のようですが、その記述にちょっとひっかかりを感じる。
・「満腹しきっているときには、私たちは食物に対してあまり関心を示さない。欲求は欠乏の函数である。現代の社会が異常な現象に対してこれほどまでに強い関心を示すということは、私たちがなんらかの意味で異常に飢えていることを意味しているのではなかろうか。(中略)逆に現代の社会は「正常すぎる」ために異常を求めているのかもしれないのである。」p.8
・「要するに、異常で例外的な事態が不安をひきおこすのは、安らかに正常性の地位に君臨しているはずの規則性と合理性とが、この例外的事態を十分に自己の支配下におさめえないような場合が生じたときである。つまりその例外が、合理性とは原理的に相容れない、合理化への道がアプリオリに閉ざされた非合理の姿で現れる場合である。」p.12
・「科学とは、私たち人間が自然を支配しようとする意志から生まれてきたものである。」p.13
・「さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人と他の人びととの間の関係の異常として現れてくる。」p.16
・「私たちは、いかなる形においてであるにせよ、事物のそれ自体において真である姿をゆがめ、これを隠蔽することなしには存続しえない定めを負うている。ここに人類の原罪がある。しかし、しょせん罪あるものならば、みずからの罪を冷徹に見透してみずからを断罪するほうがいさぎよいのではないか。虚構は、それがいかに避けられぬものであるとはいえ、虚構として曝露されなくてはならないのではないか。これが本書の意図である。」p.18
・「すなわち、患者はさしあたってまず苦痛から逃れることを希望する。しかし、医師の立場はここで必ずしも患者の立場と一致しない。医師は患者の苦痛そのものよりも、その基礎にあるにちがいない病変の発見により重点を置くからである。」p.23
・「つまりふつうならば常識の支配下にあるはずのことがらが、根底から非常識によって支配されてしまっているという形で出現してきた場合、私たちはこれを非常におかしなこととして、ふつうには起こりえない異常なこととして経験することになるだろう。」p.37
・「砂糖をなめたときに感じとったのと同じ感触が、ヴァイオリンの音色を聞いたときにも感じとられ、そこで私たちは私たちにとってより親しいほうの味覚的な表現を聴覚にも転用して、「甘い」音色ということをいうのだろう。」p.42
・「ことに特徴的なのは抽象的で難解ないいまわしが多用されることであって、ときにはふつうの国語にはないような新奇な単語が創作されたり、ある言葉が本来の意味とはまったく無関係な独創的な意味で用いられたりすることもある。」p.53
・「――周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。――なにもかも、すこし違っているみたいな感じ。なんだか、すべてがさかさまになっているみたいな気がする。」p.58
・「面接のたびに患者から再三再四もち出される「どうしたらいいでしょう」という質問は、私たちが通常ほとんど疑問にも思わず、意識することすらないような、日常生活の基本的ないとなみの全般にわたっていた。」p.59
・「なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか――」p.78
・「ちなみに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、小・中学校の教師、それも教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数がめだって多いようである。」p.102
・「実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験をきっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のように十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかということが、この事実によく示されている。」p.103
・「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である。」p.109
・「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる。」p.111
・「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである。」p.115
・「以上において提出した常識的日常性の世界に関する三原理は、すでに見てきたように相互に深く入りくみあっている。そこでこれを一つにまとめて、単一の公式で表現するとどうなるか。(中略)この公式は形の上ではこの上なく単純なものである。
1 = 1
これが私たちの「世界公式」にほかならない。」p.119
・「患者から見れば、私の質問こそ「非常識」と感じられたのではなかろうか。」p.140
・「患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言いあらわしているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない。」p.140
・「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない。」p.141
・「まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか。」p.145
・「「異常者」は、「正常者」によって構成されている合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない。」p.157
・「分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認められる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可能ということだといえるだろう。」p.174
・「私は、ふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者とはもともとひと一倍すぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗して分裂病におちいることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素質」ならば、十分に考えられることだろう。」p.176
・「アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にたとえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。」p.179
・「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である。」p.180
・「分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。」p.182
~~~~~~~
・古本なものでページの合間にレシートがはさまっていました。写真では薄くて見づらいですが、「毎度有難うございます 室蘭工業大学 生活協同組合 73-10-26」の印字があります。その日付にビックリ。今から34年前、私が生まれた約2ヶ月後のレシートです。電話番号5桁だし。こんなに古いレシートって見た記憶がないなぁ。おそらく前所有者は工大周辺にその当時からずっと住んでいる方なんでしょうね。どんな人だかちょっと気になります。レシートは元のまま本にはさみ、再び眠りへ。次にまた発見される時は来るのでしょうか。