マンガは哲学する, 永井均, 講談社 SOPHIA BOOKS, 2000年
・「こんな本も出していたのか!?」 ブックオフで見つけ、気になる著者なので、105円でないのにもかかわらず、文庫本でないのにもかかわらず、即購入。久々に夢中になって本を読みました。
・古今のマンガを題材にし、哲学的解釈をくわえていく哲学入門書であるとともに、著者お気に入りのマンガを紹介する書。
・本を書くためにかなりの取材をしたのかもしれませんが、ずいぶんいろいろなマンガを知っているものだと感心しました。載っているのは知らないマンガばかり。私の場合はほとんど昔(約20年前)の『週刊少年ジャンプ』の範囲しかわかりません。
・このように哲学の視点から見てみると、マンガとは偉大なものだと改めて思いました。
・「私はまじめな話がきらいである。この世の規範や約束事をこえた、途方もないくらいまじめな話ならいい。少なくともニーチェのような水準のまじめさなら、まあゆるせる。中途半端にまじめな話はだめだ。ところが、世の中はそうした中途半端にまじめな話で満ちあふれている。(中略)そうしたすべてをぶち壊すような真実の声を聞きたい、そうでなければやり切れないではないか! マンガに、ときにそれが聞き取れることを、私は以前から感じていた。(中略)二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。(中略)哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。(中略)私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。」p.1
・「ともあれ、どうしても王様が裸に見えてしまうので「王様は裸だ!」と叫んでしまったあの子どもは、まわりの進歩的な大人たちにくらべて、あまりに保守的であっただけだ、という可能性があることは忘れてはならないだろう。」p.16
・「「言葉は通じるのに話は通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」。 このせりふは作者の哲学的知性の高さを示している。だか、ほんとうに「言葉は通じる」のであろうか。そもそも、言葉は通じるのに話は通じない状況と、言葉が通じない状況とは、どうちがうのか。」p.17
・「ところで、読者の皆さんは、このような作品を読み、さらに、こういう微妙な差異を発見することに、よろこびを見いだせるだろうか。そんなことはぜんぜんくだらないと思う人は、吉田戦車やウィトゲンシュタインを読むよろこび――とりわけ吉田戦車をウィトゲンシュタイン的に読むよろこび――とは無縁の人であろう。」p.28
・「つまり、絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中の一人の人物の視点から内面的な真実を描き出すのである。 これはマンガという表現形式の一つの特徴であり、」p.46
・「「わたし」という語は、「これまでわたしがその性質を持っていることによって、わたしがわたしを他の人々から区別してきたその性質を、いま持っている人物」を指すことができる。」p.51
・「なぜ、そんなことができるのだろうか。なぜ、記憶を失い、自分の顔かたちさえ忘れてしまっているのに、どれが自分であるかはわからなくならないのだろうか。これが哲学的な問いである。」p.58
・「つまり、「全く同じ二人の人間がいる」とか「もうひとりの私がいる」といった同じ表現があてはまる状況にも、じつは二種類の異なる状況があるのだ。」p.71
・「さほどメジャーとはいえないが、私が個人的に最も愛するマンガ家といえば、なんといっても佐々木淳子――佐々木潤子でも佐々木倫子でもなく――である。とりわけ、表紙に「超幻想SF傑作集」と書かれた『Who!』は、まるでアイデアの宝庫のようで、すばらしい。」p.80
・「夢と現実の大きな違いは二つある。一つは、夢には現実のような一貫性、連続性がない、ということ。もう一つは、現実の側からは、夢に言及して、それについて(現実の中で)語ることができるが、夢の側からは、現実に言及して、それについて(夢の中で)語ることができない、という点である。」p.86
・「哲学とは、要するに、なぜだか最初から少し哲学的だった人が、本来のまともな人のいる場所へ――哲学をすることによって――帰ろうとする運動なのだが、小さな隔たりをうめようとするその運動こそが、おうおうにして深淵をつくりだしてしまうのである。」p.90
・「私には、宇宙のなかに地球という惑星があって人類の歴史があり日本という国があるといった「現実」のほうが、荒唐無稽なつくり話のような気がしてならないのだが……」p.96
・「だが、おそらく、狂った世界の中にただ一人狂わない者がいるなどということは、ありえないのである。「狂っている」という性質は、世界の中のある一人を除いて他の全員がそうであることができるような性質ではないのだ。」p.103
・「ドラえもんとは何か。それは、のび太の残した借金が多すぎて、百年たっても返しきれないセワシ君が、どじなのび太の運命を変えようとして、現代に送り込んだロボットである。」p.106
・「そう考えると、ドラえもんとはきわめて不思議な存在であることがわかる。彼は、いま自分がそこに存在している原因と、その存在理由そのものを、消し去るために存在しているのだから。自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在!」p.106
・「善人であることは、ときに状況の意味をとらえそこなわせる。善人とは、道徳が何のために必要とされるのか(何を実現するための手段なのか)考えようとしない人だからである。」p.122
・「芸術の鑑賞とは、他者の狂気に触れる喜びなのではあるまいか。少なくとも、私の場合はそうだ。ずいぶんまえのことだが、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を、グルダのCDで聞いていたとき、第一楽章の四分ちょっとのところで、全体の立派な構成と不釣合いな、異様に幼稚な、男の子の鳴き声が聞こえてきたことがある。聞き進むうち、その箇所からドクドクと血が流れ出しているのがありありとわかって恐ろしかった。そのときから、それまで美しいピンク色をしていると思っていたモーツァルトのすべての音が、じつはすべて血で染まったピンクだと知ったのである(「男の子の」という直感はその後聞いた多くのCDによって裏づけられた。すべての女性ピアニストがこの箇所の解釈を誤っているように聞こえたからである。ただし内田光子は、優しく包帯をまく看護婦さんのようにそこを弾いており、それはそれでとても美しい)。」p.143
・「死ぬということを、この世的な意味の次元に引き戻して考えるなら、だれかの夢の世界に入ることと考えるのがいちばん美しく、またいちばんふさわしい。 だが、ほんとうの死は、その夢からもなお排除されることなのである。」p.163
・「無を見てしまった者は、かつてない孤独を生きてゆかねばならない。業の糸を断ち切ってしまえば、自分を支えるものは何もない。生きる力の源泉そのものが涸れてしまうかもしれない。」p.179
・「禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは捨てるべきなにか巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。」p.182
・「とりわけ、天才バカボンのママとはいったい何だろう? どうして平気な顔をしてこんなとんでもない男の妻でありつづけることができるのだろうか? 究極超人を超える超ー究極超人というべきか?」p.189
・「だが、つねに問いが答えを凌駕していることこそ、哲学的感度の存在の証なのである。」p.202
・「われわれが闘うべき悪魔などいないのだ。なぜなら、悪の象徴としての悪魔とは、われわれ人間のことだからだ。人間と悪魔のあざやかな逆転が描かれた名作である。(デビルマン)」p.208
・「田宮良子は言っている。「ハエは……教わりもしないのに飛び方を知っている。クモは教わりもしないのに巣のはり方を知っている。……なぜだ? わたしが思うに……ハエもクモもただ『命令』に従っているだけなのだ。地球上の生物はすべて何かしらの『命令』を受けているのだと思う……。人間には『命令』がきてないのか?」(寄生獣)」p.212
・「またこの本の読者は例外なく人類であろうが、われわれの存在の意味が人類であるということによって規定されているわけでもない。われわれ各人が人類の存続とその繁栄のために犠牲にならねばならない理由は何もない。またそこで通用している伝統や規範や約束事に信を置くべきいかなる理由も――最終的には――ない。」p.218
・「意図的に取り上げなかった作品のなかにも傑作は多い。たとえば諸星大二郎で私がほんとうに好きなのは『夢の木の下で』(マガジンハウス)なのだが、これを哲学的に解読し、本書のしかるべき場所に位置づける能力が、私にはなかった。(中略)またたとえば、小林よしのり『戦争論』のような作品も意図的に取り上げなかった。これは哲学的感度がないからである。世の中にすでに公認されている問題において一方の側に立ってしまいがちな人は、それがどのような問題で、どちらの側に立つのであれ、哲学をすることはまず不可能である。哲学は、他にだれもその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことだからである(この戦いの過程や結果は世の中の多くの人々からは世の中ですでに存在している問題に対する答えの一種と誤解されてしまうのではあるが)。」p.220
・「なお、本書におけるマンガの引用は「報道、批評、研究その他の引用の目的上正統な範囲内で行われるもの」であるから、著者および出版社の許諾を得ていない。」p.221 ずいぶんマンガの引用(コピー)が多いので、一体どんな手続きを踏んだのかと不思議に思ったのですが、こんな抜け道があったとは。
《チェック本》
業田良家『自虐の詩』竹書房
・「こんな本も出していたのか!?」 ブックオフで見つけ、気になる著者なので、105円でないのにもかかわらず、文庫本でないのにもかかわらず、即購入。久々に夢中になって本を読みました。
・古今のマンガを題材にし、哲学的解釈をくわえていく哲学入門書であるとともに、著者お気に入りのマンガを紹介する書。
・本を書くためにかなりの取材をしたのかもしれませんが、ずいぶんいろいろなマンガを知っているものだと感心しました。載っているのは知らないマンガばかり。私の場合はほとんど昔(約20年前)の『週刊少年ジャンプ』の範囲しかわかりません。
・このように哲学の視点から見てみると、マンガとは偉大なものだと改めて思いました。
・「私はまじめな話がきらいである。この世の規範や約束事をこえた、途方もないくらいまじめな話ならいい。少なくともニーチェのような水準のまじめさなら、まあゆるせる。中途半端にまじめな話はだめだ。ところが、世の中はそうした中途半端にまじめな話で満ちあふれている。(中略)そうしたすべてをぶち壊すような真実の声を聞きたい、そうでなければやり切れないではないか! マンガに、ときにそれが聞き取れることを、私は以前から感じていた。(中略)二十世紀後半の日本のマンガは、世界史的に見て、新しい芸術表現を生み出しているのではないだろうか。(中略)哲学という形で私が言いたかったこと、言いたいことの多くが、萌芽的な形態において、マンガ作品のうちに存在している。(中略)私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。」p.1
・「ともあれ、どうしても王様が裸に見えてしまうので「王様は裸だ!」と叫んでしまったあの子どもは、まわりの進歩的な大人たちにくらべて、あまりに保守的であっただけだ、という可能性があることは忘れてはならないだろう。」p.16
・「「言葉は通じるのに話は通じないという……これは奇妙な恐ろしさだった」。 このせりふは作者の哲学的知性の高さを示している。だか、ほんとうに「言葉は通じる」のであろうか。そもそも、言葉は通じるのに話は通じない状況と、言葉が通じない状況とは、どうちがうのか。」p.17
・「ところで、読者の皆さんは、このような作品を読み、さらに、こういう微妙な差異を発見することに、よろこびを見いだせるだろうか。そんなことはぜんぜんくだらないと思う人は、吉田戦車やウィトゲンシュタインを読むよろこび――とりわけ吉田戦車をウィトゲンシュタイン的に読むよろこび――とは無縁の人であろう。」p.28
・「つまり、絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中の一人の人物の視点から内面的な真実を描き出すのである。 これはマンガという表現形式の一つの特徴であり、」p.46
・「「わたし」という語は、「これまでわたしがその性質を持っていることによって、わたしがわたしを他の人々から区別してきたその性質を、いま持っている人物」を指すことができる。」p.51
・「なぜ、そんなことができるのだろうか。なぜ、記憶を失い、自分の顔かたちさえ忘れてしまっているのに、どれが自分であるかはわからなくならないのだろうか。これが哲学的な問いである。」p.58
・「つまり、「全く同じ二人の人間がいる」とか「もうひとりの私がいる」といった同じ表現があてはまる状況にも、じつは二種類の異なる状況があるのだ。」p.71
・「さほどメジャーとはいえないが、私が個人的に最も愛するマンガ家といえば、なんといっても佐々木淳子――佐々木潤子でも佐々木倫子でもなく――である。とりわけ、表紙に「超幻想SF傑作集」と書かれた『Who!』は、まるでアイデアの宝庫のようで、すばらしい。」p.80
・「夢と現実の大きな違いは二つある。一つは、夢には現実のような一貫性、連続性がない、ということ。もう一つは、現実の側からは、夢に言及して、それについて(現実の中で)語ることができるが、夢の側からは、現実に言及して、それについて(夢の中で)語ることができない、という点である。」p.86
・「哲学とは、要するに、なぜだか最初から少し哲学的だった人が、本来のまともな人のいる場所へ――哲学をすることによって――帰ろうとする運動なのだが、小さな隔たりをうめようとするその運動こそが、おうおうにして深淵をつくりだしてしまうのである。」p.90
・「私には、宇宙のなかに地球という惑星があって人類の歴史があり日本という国があるといった「現実」のほうが、荒唐無稽なつくり話のような気がしてならないのだが……」p.96
・「だが、おそらく、狂った世界の中にただ一人狂わない者がいるなどということは、ありえないのである。「狂っている」という性質は、世界の中のある一人を除いて他の全員がそうであることができるような性質ではないのだ。」p.103
・「ドラえもんとは何か。それは、のび太の残した借金が多すぎて、百年たっても返しきれないセワシ君が、どじなのび太の運命を変えようとして、現代に送り込んだロボットである。」p.106
・「そう考えると、ドラえもんとはきわめて不思議な存在であることがわかる。彼は、いま自分がそこに存在している原因と、その存在理由そのものを、消し去るために存在しているのだから。自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在!」p.106
・「善人であることは、ときに状況の意味をとらえそこなわせる。善人とは、道徳が何のために必要とされるのか(何を実現するための手段なのか)考えようとしない人だからである。」p.122
・「芸術の鑑賞とは、他者の狂気に触れる喜びなのではあるまいか。少なくとも、私の場合はそうだ。ずいぶんまえのことだが、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を、グルダのCDで聞いていたとき、第一楽章の四分ちょっとのところで、全体の立派な構成と不釣合いな、異様に幼稚な、男の子の鳴き声が聞こえてきたことがある。聞き進むうち、その箇所からドクドクと血が流れ出しているのがありありとわかって恐ろしかった。そのときから、それまで美しいピンク色をしていると思っていたモーツァルトのすべての音が、じつはすべて血で染まったピンクだと知ったのである(「男の子の」という直感はその後聞いた多くのCDによって裏づけられた。すべての女性ピアニストがこの箇所の解釈を誤っているように聞こえたからである。ただし内田光子は、優しく包帯をまく看護婦さんのようにそこを弾いており、それはそれでとても美しい)。」p.143
・「死ぬということを、この世的な意味の次元に引き戻して考えるなら、だれかの夢の世界に入ることと考えるのがいちばん美しく、またいちばんふさわしい。 だが、ほんとうの死は、その夢からもなお排除されることなのである。」p.163
・「無を見てしまった者は、かつてない孤独を生きてゆかねばならない。業の糸を断ち切ってしまえば、自分を支えるものは何もない。生きる力の源泉そのものが涸れてしまうかもしれない。」p.179
・「禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは捨てるべきなにか巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。」p.182
・「とりわけ、天才バカボンのママとはいったい何だろう? どうして平気な顔をしてこんなとんでもない男の妻でありつづけることができるのだろうか? 究極超人を超える超ー究極超人というべきか?」p.189
・「だが、つねに問いが答えを凌駕していることこそ、哲学的感度の存在の証なのである。」p.202
・「われわれが闘うべき悪魔などいないのだ。なぜなら、悪の象徴としての悪魔とは、われわれ人間のことだからだ。人間と悪魔のあざやかな逆転が描かれた名作である。(デビルマン)」p.208
・「田宮良子は言っている。「ハエは……教わりもしないのに飛び方を知っている。クモは教わりもしないのに巣のはり方を知っている。……なぜだ? わたしが思うに……ハエもクモもただ『命令』に従っているだけなのだ。地球上の生物はすべて何かしらの『命令』を受けているのだと思う……。人間には『命令』がきてないのか?」(寄生獣)」p.212
・「またこの本の読者は例外なく人類であろうが、われわれの存在の意味が人類であるということによって規定されているわけでもない。われわれ各人が人類の存続とその繁栄のために犠牲にならねばならない理由は何もない。またそこで通用している伝統や規範や約束事に信を置くべきいかなる理由も――最終的には――ない。」p.218
・「意図的に取り上げなかった作品のなかにも傑作は多い。たとえば諸星大二郎で私がほんとうに好きなのは『夢の木の下で』(マガジンハウス)なのだが、これを哲学的に解読し、本書のしかるべき場所に位置づける能力が、私にはなかった。(中略)またたとえば、小林よしのり『戦争論』のような作品も意図的に取り上げなかった。これは哲学的感度がないからである。世の中にすでに公認されている問題において一方の側に立ってしまいがちな人は、それがどのような問題で、どちらの側に立つのであれ、哲学をすることはまず不可能である。哲学は、他にだれもその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、だれも知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことだからである(この戦いの過程や結果は世の中の多くの人々からは世の中ですでに存在している問題に対する答えの一種と誤解されてしまうのではあるが)。」p.220
・「なお、本書におけるマンガの引用は「報道、批評、研究その他の引用の目的上正統な範囲内で行われるもの」であるから、著者および出版社の許諾を得ていない。」p.221 ずいぶんマンガの引用(コピー)が多いので、一体どんな手続きを踏んだのかと不思議に思ったのですが、こんな抜け道があったとは。
《チェック本》
業田良家『自虐の詩』竹書房