少女たちは荒野を目指す
第12話 少女たちは荒野を目指す とまとめ △+
美少女が作る美少女ゲーム
こういう「創作モノ」っていうのはなまなましい苦労を
「実地に」知っているわけで、それを「美少女」の皮に
くるんで出しゃいい、って意地悪も言えるのね。
「カネ」も「スランプ」も「現実」のハナシが「見られる」ものに
なるかというとむつかしいよねえ、創作は「内面」のうねりが
そのよろこびと苦しみで、本人と仲間達だけのもので
外部の人は同じような行為をした人でないとなかなか理解しがたい
というのがあって、しかもそれは近似値であって=ではないわけで
そうなると「できあがったモノ」でもってその評価を下すのが
わかりがいいのだけど、どうだろう、「ン千本売れました」か
確かに凄いのだけど、それだけだ。
肝心のゲームの内容は視聴者にはあんまし情報が提示されてないから
どうにもカヤの外なのよね、「サクセスストーリー」でオトす分には
いいのだけど、「こいつあえげつないですなあ」ってなるには距離があるかと。
まあこういう第三者のやっかみをのぞけば「部活もの」として
かつ「ぬるくない文系もの」としての楽しみは充分にあったかとおもう
あるいはこういう「理想の青春」ってのは「荒野」の世界でやりあってる
「創作者」たちが自分達の日常をセラピーする為の一手法なんかもしれない
それは「荒野」に住むものにとっては「楽園」なんかもな。
僕だけがいない街 第12話 宝物 とまとめ ○
スパイス
「僕がいなかった十ン年」があっても、仲間が
何より母ちゃんが僕を忘れないでいてくれるのが、泣ける。
「リバイバル」によって「頭脳はオトナ」として子供時代に戻る
そこまでは「ありがち」な設定なんだけど
その「子供時代」であることの描き方の精妙さ
人間として信頼を築いていくことのむつかしさ
そしてさまざまな「試練」が与えられることの残酷さ
それらが一体になって視聴者をがっちりと巻き込んでいくねえ。
この「カラダは小学生に戻る」って設定が当たり前で、でもすごいねえ
この「不自由さ」はオトナが「社会」に向き合う時に感じる「つらさ」に近い無力感で
それは視聴しているであろうオトナ達にとって子供の悟は自分達に
非常に近い距離の存在に逆説的になるわけで、それはかつて物語が有していた
「等身大の主人公」という現代においては希少な偶像になっているとおもう。
あとはまあ「母ちゃん」だよなあ、子供が「人間関係」を築くにあたり
その土台となっている「母・父」の存在がいかに大事かってのを
「両親」が不在であることが当たり前の当邦の物語事情において
これも非常に希少にかつ的確に描きだしていたかとおもう(雛月の件も考慮に入れよ)。
まあこんな「まっとう」なおはなしが全く見られなくなった
現代のアニメーションってのは不幸なのか幸福なのか、よう分からんね
どのへんまで「リバイバル」すればそれが見られるのか、私はそれすらも知らぬ。
デュラララ!!×2 結 第36話 会うは別れの始め とまとまらないまとめ △+
愛は全てに勝つ―
はじまりは竜ヶ峰くんもダラーズも、そしておそらく首無しライダーも
「傍観者」だったと思うんですよね、面白おかしい人達が一杯
でてくるから、それを眺めていただけでもユカイである、と
それがまあ正臣じゃないけど「どうしてこうなった」ってことですわなあ
もう一度最初から全部見直してもやっぱり「どうしてこうなった」ってなりそう
まあこれだけのさまざまに濃ゆい登場人物を濃ゆく描き出せば
物語の動機も目的も意思もふっとびますよね、ただある集団が
暴力と愛をよすがにうねりの中に右往左往するといった次第。
でもまあ「無力」ではないんですよね、おおよそ
まっとうな人間からもうそう言い難い人達まで含んでるし
「集団」をある程度コントロールできる人もいるわけで
でもそういう人達でも「集まる」と「不動」であることは難しいわけで
そういう社会的な混沌と秩序が「キャラクター」を通して描かれていたのが
まあ楽しかったには違いないねえ、ただもうここまできたらオチをつけるには
こうやって「雨」でも降らすか、爆弾でも爆発させて皆吹っ飛ばすしかないw
竜ヶ峰くんはたぶん後者のような決着をつけたかったんじゃないかとおもう
セルティの方が穏当な決着をつけたかと、それはこの物語が都市的な「暴力」に
よってハナシが進んでいるけど決着は「穏当」になるのが常であるような
そういう「暴力」による「秩序」が「都市的」に成立していたかとおもう
「平和」は常に乱されて、そして「秩序」がそれにともなって顕れる
それの終わることのない「日常」、それがこの「ブクロ」の中で観察された
実におもしろい観察だったともいえるね、あんましにも長すぎてもう
「観察」だったなんて忘れてしまうぐらいに。
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 第25話 鉄華団 とまとめ ○
犠牲無くて自由無し
「正面突破」しか基本的にできないってことがどういうことかってことやねえ
引き返すことも、抜け道を使うこともできないってのが「貧しい」ってことやね
そしてそこでどうやって「誇り」を持って生きていくか(あるいは死ぬか)という。
「戦闘」も基本的には防御重視の正面突破が基本だったから
最近のガンダムに多い「高火力・高機動」を実現する為にも何らかの「犠牲」が
必要というそういう徹底した「チョロいガンダム」に対して「重く」あろうとした
のが最後まで当作品には貫かれていたと、おもう。
「本国」⇔「植民」という関係性、愚連隊じみた主人公たち
世間知らずのお嬢様、「下半身なんて不要」、騙される坊や
などなど「ガンダム」としてのオマージュが細かく咀嚼されていて
そしてそれ故に「いつものガンダム」から解放されていたかと。
まっとうなハナシをする為に「ガンダム」を粉々にすり潰して
その砂利の上を素足で渡るような、そういう道を当作品は歩んでいたとおもう
「おもしろいハナシをする為には『ガンダム』すら犠牲にしなければならない」
ということを初代ガンダムから35年たったこの作品はそう
心が叫びたがっていたのではないか、とおもう。