手帳なわたし

手帳オタクな私。若い時からその時々の生活のスタイルに合わせて手帳を選び、使い方を工夫してきました。私の今の究極をご紹介。

クリスマスに

2013-12-25 | 聖書のことば



今日はクリスマス。この日ぐらいは、ちょっとひと休みして聖書をご一緒にいかがでしょうか?

クリスマスは、イエスキリストのお誕生をお祝いする日ですが、わたしは自分が母親になってからは、いつもクリスマスの時期になると、イエス様を身ごもり、出産、手塩にかけて育てて、その息子を十字架の刑で失った母マリアの気持ちに一番心が向きます。


神によって、マリアが主イエスを身ごもったとき、彼女はまだ、ヨセフと婚約中でした。
この箇所を読みながら、いつもいろいろなことを思いめぐらします。

主イエスの母マリアは、最初天使ガブリエルから「あなたは男の子を産む」と言われたとき、どんなに驚いたことでしょうか。身に覚えがなく、「そんなことはありえません」とこたえるマリア。そのときの驚愕は容易に想像できます。しかし、続く天使のことばを聞いたマリアはこのように答えます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。

ここに大変大きな飛躍があります。どうしてこんなふうな思いになったのでしょうか?


この言葉は、神を信じていたマリアだからこその言葉だったのです。自分の身、おなかの子供のこと、そして両者の将来のこと、すべてが神から出て、神の導きの中で持ち運ばれていくことを強く実感しての言葉であったろうと思います。
子供は「つくるもの」ではなく、「ゆだねられるもの」、いや私たちの人生そのものが神からゆだねられたものであると教えられます。そして、はからずも、マリアの言葉は、「委ねられた生」をただ、「宿命」として、なかば諦めたかたちで受け取るのではなく、むしろ、「委ねられた生」を「誇り」を持って受け取ったことではなかったでしょうか。マリアは自分の身に起こったことを、その後「マリアの賛歌」の中で高らかに賛美しています。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」            (ルカ1:47~49)


皆様にとって神の祝福あふるるクリスマスとなりますように。







コメント (9)
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