黄金の紐
「郵便屋さん、そりゃないよ」
遠くから凛とした声がひびいた。
春とはいっても、まだ寒気が緩むまえの朝十時である。その滞った空気を貫いて、容赦をしない女の声がぴしりと飛んできた。
吉村はおもわず歩みを止めて、からだを固くした。二十センチほどの細い銀線が背後で煌き、彼の後頭部を光のように射貫いていったのを、はっきりと意識した。
(なるほど、神様の目は誤魔化せないな)
それが女の声だとわかっていても、あまりにも間がいいものだから、日常を超えたところの存在に想いが行ったのだ。すべて見通されてしまった仕方なさが、逆に落ち着きをもたらした。
『天網恢恢疎にして漏らさず』・・・・心のうちで呟きながら、ゆっくりと後ろを振り向いた。
かなり遠くからの声と思っていたのに、足早に近付く女はもう吉村から数歩のところに来ていた。
女は小豆色に黒の縦縞の着物を着ていた。その上から引っ掛けた臙脂のちゃんちゃんこが、女の印象をいっそう派手なものにしていた。
吉村は半ば驚き、半ば冷淡に女を見た。
何を意味するのか、右手の肘からもたげた女の腕が袖口から覗いている。艶を帯びた白さが、陽に輝いた。吉村は、女の手が自分に向かって振り下ろされるのではないかと、変なことを考えたりした。
「あんた、こんなところに紐を投げ捨てちゃ駄目じゃないの」
ついと女の手が伸びた。
前屈みになった襟元から、甘い匂いが流れた。
「ああっ」と声を漏らして、吉村もからだを傾けた。たったいま彼が捨てた把束紐は、きっちりと蓋をしたポリ容器の傍らに、だらしなく伸びた形で落ちている。
目の前に晒された罪を、せめて自分で消し去ろうとするかのように手を出したが、それより早く女は紐を摘み上げ、ごみ入れの蓋を持ち上げてポイと放り込んだ。派手な着物を着ているわりには、声にも所作にも素朴さがあった。それが若い吉村を素直にさせた。
「すみません」
吉村は首に手を当てて謝った。長身の膝を折るようにしたのも、すまなさの表れであった。
「ときどき捨ててあるのよ」
女は瞳に力をこめて吉村を見た。「・・・・でも、いつもの人とは違うわね。違うでしょう?」
「は、はい」
たしかに彼は、この配達区をしばらく担当していなかった。郵便物の取り集めや、速達の仕事に就くことが多くて、こうして通常郵便物の配達に来たのは、三週間ぶりのことだった。
「あたしにみつかるなんて、運が悪かったわね。迷惑だったかしら?」
「いえ、とんでもないっス、ぼくがいけないんですから」
彼もふだんは山のサークルにあって後輩をリードする立場にいたのだが、どういうわけかポリ容器を見たとたんに、手が動いてしまったのだった。
後になって、吉村はこのときの気持ちを次のように説明している。すなわち、彼が紙紐を投げたときは、ほとんど輪投げをしているような気分であって、紐が容器の蓋から滑り落ちて地面に伸びた瞬間、はじめて罪の意識を感じたのだ、と。
自分の内なる声と、女の声とが重なるように飛んできたため、彼はふだん考えもしない神様にまで想いを馳せたわけだが、後の推移をたどると、やはり神様が介在していたと信じるのが理に適っていた。
縁は異なものというが、この時のやりとりがきっかけで、吉村は女と口を利くようになり、やがて付き合うまでになった。
女の名前は片岡久美。
家はこじんまりとした季節料理の店<ふくべ>をやっていて、家族はどうやら四人ということまで彼は知っていた。というのは、郵便受けに四つの名前がきっちりと書かれていたからで、それですべてという保証はなかったが、いつも掃き清められている軒先の几帳面さから、彼は額面どおりに受け取っていた。
「山はいいっスよ。七月に白馬へ行く予定になっているんですが、一緒に行きませんか。・・・・実は、きょうのことを、あなただけでなく山の神様にも謝ってこようと、いま思ったところなんです」
不始末を咎められている最中に、彼はちゃっかり誘いをかけていた。いかにも当世風のやりかたにみえた。
しかし本来の吉村は、いつになっても世慣れたことのできないウブな男だった。とくに女性に関しては意気地がなくて、郷里では焦れた相手に愛想尽かしをされた苦い経験をもっていた。
その彼が、どうしてこんなに調子のいい言葉を口にできたのか。かつて触れたことのない魅力に満ちた久美を、自分の相手になど想像すらしなかった。それが幸いしたのかもしれなかった。
ともあれ、その時の誘いが実を結んで、明治座裏の喫茶店に久美があたふたと駆けつけてくるようになった。
吉村は二十四歳である。
熊本の八代海に面した小さな町で育ち、高等学校を卒業してすぐに郵便局に入った。
試験は九州を統括する郵便局で受けたが、勤務地は東京ということを、最初から承知していた。博多にいる母方の叔父が貯金課の窓口に永年勤めていて、その辺の事情を詳しく教えてくれた。
面接試験の際に、数年後の郷里へのUターンを希望する若者もいたが、居心地が悪くなければ東京に住み着いてもよいと考えていた吉村は、雑作なく採用された。家業の米穀店は長兄が継いでいたし、兄弟が手を携えて何かをするといったことに興味を持てない性質だったから、同期の仲間がぽつぽつと郷里に戻っていっても、焦りを感じることはなかった。
東京に出て六年間、彼の興味は山ひと筋といってよかった。入局早々、山好きの先輩に誘われて雲取山に登ったのが山歩きのきっかけとなった。
以来、ほぼ月に一度のペースで、奥秩父や八ヶ岳方面に出かけるようになった。西沢渓谷を基点とする甲武信ヶ岳、金峰山といった山々、あるいは美濃戸口から硫黄岳、横岳、赤岳、中岳、権現岳、網笠岳と抜ける縦走コースは、相手を替え、季節を変えて、すでに三回行っていた。
近頃では、彼の興味は北アルプス、中央アルプスに向かっていて、費用も日程も簡単には整わなくなったものだから、一日だけの休みの日には、ナップサックをひっ提げて、奥武蔵のハイキングコースを風のように走り抜けてくるのだった。
「洋三さん、あたし幾つに見えて?」
<ふくべ>が忙しくなる前のひととき、スカートにカーディガンという軽装で抜け出して来た久美が、芝居帰りの客で混み合う喫茶店の奥まった席で訊いたことがある。頬骨の上でわずかに括れたピーナツ型の顔が、上向きかげんに彼をみつめていた。
「うーん」
吉村は細面の顔を引き締め、久美をみつめ返した。他愛無い会話の一片とは思えないものが、彼女の額の辺りに漂っていた。
「・・・・ぼくと同じぐらい、じゃないスか」
吉村はやっと答えた。
「東京に来て六年目になると言ったでしょう。高校卒業だと二十四歳よね、違ってる?」
「当たりです」
「あたし、二十五歳なの。昔ふうにいえば姥桜っていうところかしら。それでも付き合って下さる?」
「もちろんです」
吉村はしなやかな上半身をまっすぐに伸ばして、久美の言葉を受け止めた。
冬でも登山用のウールのシャツ一枚で過ごす彼は、からだの隅々まで解放されていて、筋肉の動きや皮膚の反応が布地を透して現れるように見えた。
「うれしい」
潤いのあるひびきが、久美の紅い唇から漏れた。
彼を叱ったのと同じ女の声が、鈴の音のように聴こえた。
「約束げんまん・・・・」
久美が小指を突き出した。小さな手だが、労働の跡があった。吉村はつよく指を絡めた。
「ひとつ年上の嫁は、金の草鞋を履いてでも探せというの知ってますか」
吉村が真顔で言った。
久美はうなずいた。「・・・・洋三さんて、いろんな喩えをよく知ってらっしゃるのね」
「ぼくはおばあちゃん子で、子守唄がわりにことわざを聴かされて育ったんです。耳の奥に残っている響きが懐かしいっスよ」
幾つ知っているかと問われて、彼は百ぐらいと答えた。一時、覚えることに熱中したのだ。
「うわァ、それじゃあたし三日に一遍は聞かされることになるのね」
久美は言った後で頬を染めた。吉村は一つ年上のこの女性を、真実愛おしいとおもった。
いやでなければ、これから家に来て欲しいと久美は言った。「あなたが来てくれれば、父も祖母も喜ぶと思うんだけど・・・・」
吉村には、ひとつ思い当たることがあった。ときおり品のよい老女が<ふくべ>の軒先を掃除していたが、郵便受けにあった二つの女名前は、やはり久美と老女のものだったのだ。
(母親は、どうしたのだろう)
当然の疑問が脳裏をかすめた。だが、吉村はそこですっと立ち上がった。誰にも事情はあるのだし、久美以外のことなど大した問題ではないのだ。彼が忘れていても、いずれ彼女の方から話し出すに決まっていた。
<ふくべ>までは、歩いて五分ぐらいの距離だった。久美に続いて暖簾をくぐると、
「へい、いらっしゃい」
「いらっしゃいまし」
二つの声が同時に飛んできた。張りのある男の声と、涼やかな女の声だった。
吉村はカウンターの奥をみやった。久美の父がさりげなく彼を見て、手元に視線を戻した。短く刈り上げた白髪まじりの頭に、手拭が馴染んでいる。肉付きのよい横顔が、店内の強い電光を受けてつやつやと光った。
一方、給水器の傍らでにこやかに微笑んでいるのが、久美の祖母だった。老いたとはいえ未だ昔の美貌を輪郭に残していて、やや強めに襟を抜いた着物の上から、糊の利いた割烹着を身につけている。
よく動く眼で久美と無言の会話を交わしたあと、「お忙しいでしょうに、よく来て下さいました」と、小腰を屈めて吉村に挨拶した。
「久美さん、奥へお通ししなさいな。正夫ちゃんは、いま塾ですから・・・・」
この老女の声が久美に受け継がれたことは、明らかであった。
「お父さん、おいしいもの作って」
「あいよ」
歓待の気配に、吉村は恐縮していた。
店内には、中年の夫婦者らしい客が一組いた。調理場との境の柱に、朱色の紐で括られた大きな瓢箪が下がっていた。このふくべも久美の家の一員かとおもうと、彼はそのふくよかなものに愛着を覚えた。
七月末に、吉村は久美を連れて白馬をめざした。
猿倉までバスで入り、一時間ほど登った雪渓下の小屋で一泊した。
翌朝、久美の登山靴にアイゼンを装着してやっていると、たった一本の紙紐が縁でついにここまで来たかと感慨が湧いた。
彼にとってあの把束紐は、使い捨ての安価な消耗品ではなかった。朝日を受けてキラキラと輝く黄金の紐であった。
あと数時間この雪渓を往けば、久美の憧れるお花畑がある。そこにはハクサンコザクラやミヤマキンポウゲなど、可憐な花々が咲き乱れている。イワギキョウやコイワカガミをみつけるたびに、あの銀鈴のような歓声を振りまくかもしれなかった。
ふたりの登山靴に、アイゼンがしっかりと固定された。
吉村は久美の分まで詰め込んだ大型のザックを、よいしょと背負いあげた。
「さあ、行こうか」
雪渓の斜面にすっくと立った吉村が、久美に手を差しのべた。
のっけからの、初対面の女の「凛とした」声で、幸ある「出来事」を暗示しているようで、引きずり込まれました。この手の作品は、一字一句の配慮が大切なんでしょうが、小気味よい話の流れにその配慮が感じ取れます。
でも、うらやましい郵便人だなあ。ひょんなきっかけから、素敵な年ごろの女とその家族との縁が生まれそうなんですから。
良き時代の素直な人間関係を思い起こされました。
この連作に期待!