どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (52)

2006-08-16 01:51:33 | 連載小説
 ミナコさんは、手料理でおれをもてなしてくれた。鶏肉と玉ねぎにシシ唐辛子を使った洋風のスープが、胃を刺激した。
 疲れた体に、国産のワインがよく効いた。
 辛味を多く使った苦心の献立が、アルコールの回りをいっそう早くした。
「あなた、だいじょうぶ?」
 ミナコさんが、心配そうにおれを覗き込んだ。
「なんだか、腑抜けになったような気がして、頼りないんだ」
「疲れたのね。・・田舎って、疲れるものなのよね」
「普通の田舎じゃないからな」
 おれの呟きに、ミナコさんが一瞬、口をつぐんだ。
「でも、長い間気になっていたこと、全部済んだんでしょ・・」
「一応はね。だけど、それって簡単に捨てたり、置いてきたりできるものじゃないからね。知らず知らずのうちに、力んでいたみたいなんだ」
 ミナコさんが、うなずいて見せた。
 食べ終わった食器の片付けもそこそこに、ミナコさんは六畳間におれの布団を敷いてくれた。
「歯磨きだけしたら、いったん寝なさい。自分で思ってる以上に、くたびれているはずよ」
 おれは、言われたとおりに身支度して、寝床にもぐりこんだ。
 ミナコさんが、電燈を消し、自分の部屋に引き上げる気配を、半分眠りに墜ちながら聞いていた。
 どれほど時間が経ったのか。おれは、夢をみていた。
 暗い森を抜けてきた一頭のカモシカが、いま自動車道路を前にたたずんでいた。幅三メートルほどの、さほど広くもない県道である。
 向こう側へ渡れば何かがあると確信している訳ではないが、カモシカの瞳には、山奥とは違う柔らかな緑や崖っぷちに咲く鬼ユリの花が映っていて、一度は行ってみたい気持ちにさせられていたのだ。
 あるいは、こちら側での日々に、倦んでいたということかもしれない。
 舗装道路を渡り、ガードレールを越えて、向こうの藪に踏み込むことに、憧れを抱きながら、行動を起こすきっかけをつかめないでいた。
(じれったいなァ)
 思ったとたんに、おれが、そのカモシカであることに気付いた。
 躊躇していたのは、カモシカになったおれだったのだ。
「何をもたもたしているんだろう」
 見ているおれが、カモシカのおれに舌打ちをしている。「・・誰も通らないような山中の道路を、なぜ渡ることができないのだ」
 イケ! イケ!
 おれは、闇雲に叱咤する。
 おまえは、俊敏な獣だろう。おれの見ている前で、あっという間に姿をくらますことができるはずだ。
 何を恐れることがあるのか。イケ! イケ!
 眠りの底で、おれの中の獣が唸っている。
 理不尽なこと、理不尽なやつに、頭を下げて跳びかかろうとしている。
 だが、理不尽に広がる夜の草むらに、花のような焔が幾つも現れると、おれの中の獣は、跳びかかれないでその場にうずくまる。
 不甲斐なさに、おれは歯軋りする。
 歯軋りするおれを、獣が見返す。睨みながら怒ったように、またも唸り声を上げる。
 道端には、相変わらずカモシカがたたずんでいる。
 カモシカの目には、柔らかな緑も、崖っぷちの鬼ユリも、もう見えなくなっている。渡るチャンスを逸して、塑像のように立ち尽くす。
 どうしたらいいんだ。カモシカの中のおれが、呻いている。
 何ひとつ見えません。おれの中のカモシカが草のような弱音を吐く。
 突然、ヘッドライトがカモシカの瞳を射る。舗装道路を曲がってきた自動車が、激しく突進してくる。
 この時とばかりに、カモシカが跳びだす。おれも跳ぶ。おれの中の獣が飛ばされて、道路に叩きつけられる。
「ギャーッ」
 自分の叫び声に驚いて、目を覚ました。布団の上で跳び上がった痕跡が、手足の筋肉の硬直となって残っている。
 心臓もドキドキと脈打って、吐く息が荒くなっている。
「どうしたの。だいじょうぶ?」
 寝る前に聞いたのと同じ言葉が、襖の向こうから聞こえる。
 ミナコさんも寝入っていたらしく、電燈を点け、襖を開ける音のあとに、やっと丸いシルエットが現れた。
「ごめん、怖い夢をみちゃった・・」
「今度の旅行、よほどきつかったのね」
 ミナコさんが、おれの横にひざまずいて、おれの額に掌を置いた。「こんなに汗をかいて・・」
「ゆうべ、ぼくが電話をした恋路火祭りはね、実はあれも白山神社が祭神なんだそうだ。後から知って、驚いたんだ」
 脈絡のないことばが、おれの口から漏れた。おそらくミナコさんには、寝言のように聞こえたことだろう。
 あまりにも符合する符牒は怖い。
 能登、おれ、白山、ミナコさん。火、赤、糸、蜘蛛、運命。
「分かったことは、殺された母親と殺したニイチャンは、白山神社の二つの火祭りに導かれて、命を燃やしたということだけ・・」
 おれは、目を瞑ったまましゃべっていた。「パーンと弾ける花火はきれいだけれど、能登に伝わる油物の火炎は、人間の芯の脂まで焼き尽くして、なかなか消えないんだよね」
 やめて! ミナコさんは、おれの頭をかき抱いて、寝言をやめさせようとした。焼きたてのパンのような匂いがして、鼻腔に安らぎが広がった。
 そういえば、きょう上野から乗った山手線の車中に、<またも女子行員による巨額の横領事件>と銘打った週刊誌の中吊り広告が提げられていた。
 おれが、七尾へ出発するころに発覚した事件らしく、今回は足利銀行栃木支店を舞台に、男に貢ぐために二億円を横領したと小見出しが付いていた。
(もしかしたら、ミナコさんは、おれのために経理操作をしたんじゃないか)
 突然の啓示のように閃くものがあった。
 金額はわずかだが、あの頃まったく収入のなかったおれに、アパートを借りる金を融通してくれたのはミナコさんではないか。
 いま、おれがミナコさんに抱えられて転がっている、この2DKの住まいを確保するために、自動車内装会社社長の利益圧縮に便乗して、掠め取ろうとしたのではなかったか。
 だとすれば、おれは、なんという粗忽者だろう。
 迂闊にも、それに気付かないまま、今日に至ったとは・・。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 おれは、うめき声をあげながら、ミナコさんに縋りついた。
「どうしたのよ。どうしたっていうの・・」
 戸惑うミナコさんに、いまさら訳など告げることはできない。
 おれは、女々しいと思われるのも厭わず、ミナコさんの膝にかじりついた。そうしていると、能登で振り捨ててきたものが、新しい細胞を持って甦ってくる。
 頼りないと思わせるほど、おれを弱らせた神々の行事が、くびきを解いて、自由な獣に戻してくれる。
 ふくよかな体臭が、干草のように匂う。
 おれも、くびきを解いて、ミナコさんを楽にしてあげよう。
 あらゆる事象は、刻一刻と変化するものだ。ならば、中空で縺れ合う蝶のように、互いに解き放たれた魂の戯れを楽しめばよい。
「ミナコさん、いつも傍に居てくれてありがとう」
 もう、結婚しようなどと言わないから、安心していいよ。
 四柱推命の勉強もよくして、信頼される占い師になってほしい。偉い先生について、深く学んでほしい。
 おれも、たたら出版がよい本を出して、取次ぎのルートに乗せられるようになるまで、明日からいっそう頑張るからね。
 自分のこと、ミナコさんのこと、ふたりのこと、すべての日常が滑らかに通り過ぎて行くことを、おれは心から望んだ。
「しょうがない子ね。眠ったまま、何かしゃべってるわ。ムニャムニャ言ったって、わたしに分かるわけないでしょ」
 おれは、笑いを堪えながら、しばらくの間ムニャムニャといい続けた。
 明日になれば、ミナコさんも、これからの計画を聞かせてくれるだろう。おれが期待している以上に、ミナコさんは人に慕われるだろうと思った。

  (未完)


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