その日は、午後から大学に行くアルバイトの写植オペレーターと入れ替わりに、懸案の『こども相撲大会』用チラシ作成に取り掛かった。
こどもの日の前日、五月四日の縁日を開催日としているから、それほど、のんびりとはしていられない。
おれは、レイアウトを考え、写植を打ち、台紙を作り、その夜のうちに貼りこんだ。
出来上がった版下を元に、校正用の清刷りを作り、翌日、巣鴨地蔵通り商店会会長宅を訪れた。
前もって連絡をしておいたので、『こども相撲大会』の実行委員でもある若手の事務局員が同席して、その場で校正をしてくれた。
たいした手直しをすることなく、責任校了にこぎつけた。おれの提案で近隣の小学校までチラシ配布の範囲を広げることになり、受注枚数が大幅に増えた。
「うん、よかったね。企画段階からアドバイスできるようになれば、最高だよ」
多々良もまた、おれと同様の考えで、チラシの増刷による目先の利益など眼中にない。
そもそも、印刷枚数が増えたところで、使用する紙の量が増加するだけの話である。その他、多少のコスト増はあっても、大きく請求額を上乗せするわけにはいかないだろう。
それに引き換え、何かを進言できるほどの信頼を得ることができれば、ビジネスのチャンスも増えようかというものである。商店会のみならず、地蔵通り商店街に軒を連ねる個々の商店に向けて、なんらかのアプローチができるようになれば、たたら出版にも新たな事業の可能性が生まれるはずである。
「紺野くんの換わりに、正規のオペレーターを雇うつもりでね。・・そうなったら、きみには、もっと営業面で活躍してもらうよ」
多々良は、体制作りに自信を持っているらしかった。
このところ、写植の需要も落ち着いてきていたし、オペレーターの養成も進んでいて、一時の売り手市場とは様子が違っていた。そんな事情もあって、多々良は人の確保に目途をつけていたのだろう。
おれの方も、毎日行き当たりばったりの仕事から解放されて、時間的に余裕を持てる環境を期待できるわけだから、社長の方針には大賛成だった。
仕事の方は順調だったが、その間、おれの頭の中に去来するのは、拘置所で面会した際の、ミナコさんの精彩を欠いた姿だった。
立会いの係官を意識しすぎたのは、おれも同様だったが、それよりも、ミナコさん自身に、外へ向けて訴えようとする情熱のようなものが、希薄になっている気がしてならなかった。
逮捕から起訴に至る経過の中で、考えもしなかったショックに見舞われたことは想像できた。刑事による尋問や、検察官による取調べの厳しさに直面して、身体からも、精神からも、溌剌とした生気が失われていったことは、理解できないことではなかった。
だが、それにしても、あれほど、おれを愛してくれたミナコさんの情熱は、どこへ消えてしまったのだろう。
面会室の仕切り板を突き抜けて、おれに訴えかけてくるコトバの迸りを、どうしても感じ取ることができなかったのだ。
ミナコさんに、まだ迷いがあるのだろうか。
おれに対する配慮や、身内に係わる躊躇といったものが・・。
そんなものなら、なんとか乗り越える手段がありそうに感じられた。
だが、おれが最も心配するのは、ミナコさんの心が、すでにおれから離れてしまったのではないかという惧れだった。引越しを目前にしての失踪といい、仙台から送ってきた手紙といい、おれに向かって発せられる磁力線のようなものがなくなっている・・。
そのとき、おれの脳裏を一閃したものがあった。
あの、仕切り板の穿孔を越えることができなかったのは、おれの方の問題ではなかったのか。
おれが不満に感じたように、ミナコさんもまた、色を削ぎ落とされたおれの無機質な音声に出くわして、心を萎えさせていったのではなかったか。
「あなたは、自分でも抑えきれないほどの怒りを、もてあましていたわ。・・・」
生々しく甦る手紙の文面が、ミナコさんのおれに対する不審を改めて浮き彫りにした。自動車内装会社社長への憎しみが、自分にも向かっていると感じたベッドでの行為について、おれは何ひとつ答えを出していないし、言い訳すら伝えていなかったのだ。
(すまなかった・・)
せっかく面会を許されながら、むざむざとチャンスを逸したことに気付いた。
初めての拘置所、初めての面会ということを考慮しても、おれの対応は無策過ぎた。あまりにも拘置所への先入観に囚われていて、ミナコさんのこころの深奥まで、想いが至っていなかったのだ。
おれは、急に焦りを覚えた。
できることなら、すぐにでも取って返して、もう一度ミナコさんに会いたいと思った。
だが、それは適うことではない。
おれは、近くの文房具店で便箋と封筒を買った。ミナコさんへ書き送る手紙の文面を考えながら、田安門から武道館経由で北の丸公園まで歩いた。
検閲を受けることは周知の事実だから、内容はどうしても当たり障りのないものになりがちだった。ミナコさんへの熱い想いを書きかけては、躊躇し、何度も破り捨てた。芝生に座り込んだおれの脚の間に、丸めた便箋がいくつも転がった。
このままでは、面会のときと同じになってしまう。
羞恥をかなぐり捨てて、「もう一度会いたい」と書いた。「会って、おれの過ちを、すべて謝りたい」と結んだ。
翌週の半ば以降の数日を、希望の面会日として、了解を求めた。
そのまま九段下の郵便局まで下って、切手を買い、東京拘置所宛の手紙を投函した。できるだけ早くミナコさんのもとに届けたいと、一瞬速達にすることを考えたが、なぜか不安を覚えて止めた。
検閲のことを考えると、根拠などないものの、裏目に出そうな気がしたのだ。
世の中のことは、目立たないようにしているのが一番だ。事なかれ主義のように思われるかもしれないが、おれが生きてきて、しみじみと感じるのはそのことだ。
どんな理屈でも、永久に受け入れられる理屈はない。どんな正義でも、永遠に支持される正義はない。人のこころが微妙に動いたとき、理屈も正義も無傷ではいられない。・・そして、ひとの心はけっこう動く。目立つものには、とくに食い付きたくなるらしい。
速達にしなかったことで、おれの焦りは却って弱まった。
この夜は、久しぶりに、中野駅北口の屋台で、焼き鳥を口にした。
パチンコ稼業に戻った隣人お勧めの焼酎を確かめたが、あいにく『吉四六』は置いてないとのことだった。
「芋なら、あるよ」
親爺の推奨にのって、梅わりをお代わりした。
このところ、麦焼酎が人気を博しているらしかったが、屋台では、名前はいらないのだ。安くて、酔えるアルコールが、人気の銘柄といえた。
十二時近くにアパートへ戻ろうとすると、路地の入口が救急車にふさがれていた。サイレンこそ止まってはいたが、横を通り抜けようとして、まわり続ける回転灯の眩しさに、目がくらんだ。
そのまま急ぎ足でアパートにたどり着くと、ちょうどストレッチャーに載せられた隣室のオクサンが、毛布に覆われるようにして運び出されてきた。
救急隊員のあとを追うように、ヒモの旦那が付き添っている。だぶだぶのトレーナー姿で、いつも以上にデカイ目を見開いている。
「どうかしたんですか!」
思わず大声を掛けると、一瞬途方に暮れた顔をした。
「クスリを飲みすぎて、目ェ覚ましょらんとよ」
あっさりと状況を明かす隣人の対応に、訊いたおれの方がたじろいで、道を空けた。
いつの間に来ていたのか、アパートの大家である六十歳前後の女性が、不機嫌そうに顛末を見守っていた。何にせよ、騒ぎを起こす店子は、願い下げにしたいと言わんばかりの顔付きだった。
その気持ちは、分からないではないが、調子に乗って文句でもつけようものなら、何が起こるかわからんぞと、大家のために慎重な対応を望むのだった。
(続く)
(2006/06/12より再掲)
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