いまだ穢されることのない沈黙の花嫁よ
静寂とゆるやかな時の養い子よ
森の歴史家、そなたは我々の詩よりもはるかにここちよく
花の物語を語ることができる
若きロマン派詩人キーツは、ギリシャの古い甕に見入っています。想像力を持ってすれば、そこに描かれている絵は、どんな美しい詩よりも雄弁に我々に語りかけてくれるというのです。どうやらそこには求愛の場面が描かれているようです。人間の世界か、神々の世界か、ともあれ壷に描かれた恋の法悦状態は、流れゆく時の宿命から自由で、永遠に色褪せることはありません。
Fair youth, beneath the trees, thou canst not leave
Thy song, nor ever can those trees be bare;
Bold Lover, never, never canst thou kiss,
Though winning near the goal yet, do not grieve;
She cannot fade, though thou hast not thy bliss,
For ever wilt thou love, and she be fair!
美しい若者よ、木々の下で、そなたは歌を止めることはない
そしてその木々も、決して葉を散らすことはない
奔放な恋人よ、そなたは決して口づけることはできないのだ
乙女の唇は奪えそうでも、それでも悲しむことはない
彼女は色褪せることはないのだ そなたも至福を得ることはできないが
そなたは永遠に愛し続け、彼女は永遠に美しい!
よく考えれば、絵の中の世界が完璧な幸福というわけではなく、美しい若者は乙女の唇を勝ち取ることに成功しようとしていますが、逆に言えば、二人の唇が合わさることは、決してありません。これを詩人は「冷たい牧歌」と呼び、高揚した憧れの感情と同時に、冷たい壷を目の前にした現実を忘れてはいないのです。
新たな情熱が燃え上がる瞬間こそが恋の真髄のひとつであるならば、それは方向性をもった動的なプロセスです。その意味において冷たく固定した永遠性、不死とは相容れません。恋のプロセス、惹かれ、近づき、自分の思いが相手に伝わり、相手も同じように自分を求めてくれるという感情を確認したときの喜び、そして時と論理を超越して二人の世界へ飛び立つ過程は、いずれ必然的に転換期を迎えることになります。恋愛感情は日常生活に埋没すると高揚感は薄れ、多かれ少なかれ、必ず「倦怠」、「幻滅」や「挫折」を伴います。それが「後悔」や「嫌悪」につながると、「忍耐」か「諦念」、もしくは「逃避(願望)」の道へ向かうでしょう。そうならないようには、「寛容」や「尊重」を用いて「共生」への長い道のりしか残されていないのです。
このように見ると、なんだかとても悲しい現実ですね。だからこそ、詩人はその至高の瞬間を捉えようとする。一瞬のためでさえも、人間は生きる価値がある。そこに詰まっている「可能性」を見ることに、生の意味に触れる本質があると考えるからなのです。