『新聞を読む男』という題であれば、まず新聞を読む男を意識して見る。
しかし四分割された画面の左端にその男を認めるものの、残りの三つの画面に男の存在はない。酷似というか、まったく同一に見える部屋の設えには、男の不在が漂うばかりである。
円柱形のストーブは人に近似した存在感を持つが、以て非なるものであり譲歩の余地はない。
なぜ、『新聞を読む男』なのか・・・男は確実に描かれているが、確実に描かれていない三倍もの画面によってその存在は小さく見え、むしろ不在の大きさに鑑賞者は惑わされるばかりである。
この作品全体をマグリットの精神内部に置き換えてみると、男(父親かもしれない)は、一見こちらを伺っている風ではあるが、関心は新聞(外部)にあるとマグリットは言っている、あくまで新聞を読んでいるのだと。否、男はこちら(マグリット/家庭内)に細心の注意を払っているのかもしれない。しかし、息子(マグリット)はそれを否定し、あえて「新聞を読む男」なのだと表題をつけている。この微妙な差異・・・息子が成長し大人になったからこそこの曖昧な状況を具体化しえたのだと思う。・・・客観的には自分を含む家庭内を見ていたようであり、主観的には新聞(関心は外部にある)を読んでいたのだとしか思えない。
不在の連続・・・居ないという不安心理。(マグリットの描く原点でもある)
『新聞を読む男』は『父の肖像』ではないかと、思う。
しかし四分割された画面の左端にその男を認めるものの、残りの三つの画面に男の存在はない。酷似というか、まったく同一に見える部屋の設えには、男の不在が漂うばかりである。
円柱形のストーブは人に近似した存在感を持つが、以て非なるものであり譲歩の余地はない。
なぜ、『新聞を読む男』なのか・・・男は確実に描かれているが、確実に描かれていない三倍もの画面によってその存在は小さく見え、むしろ不在の大きさに鑑賞者は惑わされるばかりである。
この作品全体をマグリットの精神内部に置き換えてみると、男(父親かもしれない)は、一見こちらを伺っている風ではあるが、関心は新聞(外部)にあるとマグリットは言っている、あくまで新聞を読んでいるのだと。否、男はこちら(マグリット/家庭内)に細心の注意を払っているのかもしれない。しかし、息子(マグリット)はそれを否定し、あえて「新聞を読む男」なのだと表題をつけている。この微妙な差異・・・息子が成長し大人になったからこそこの曖昧な状況を具体化しえたのだと思う。・・・客観的には自分を含む家庭内を見ていたようであり、主観的には新聞(関心は外部にある)を読んでいたのだとしか思えない。
不在の連続・・・居ないという不安心理。(マグリットの描く原点でもある)
『新聞を読む男』は『父の肖像』ではないかと、思う。