続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『黄金町バザール 2013』

2013-10-13 06:56:31 | 美術ノート
 京急の高架下などを利用した個々の空間に選出の作家による作品展示・・・。

 美術の概念は根強くわたしのなかを占領している、いわゆる平面から具象彫刻あたりまで。けれど、それらは美術の一分野を占めていることは動かしがたい事実ではあるけれど、状況は更なる変化を見せている。

 世界からの情報、あるいは個々からの発信のせめぎ合いが一つの答えを出す抽象的手法。常識を一つカタンと外して見せ、そこに新しい発見を促す。答えを探す誘引は隠れている。けれど、(ああ、そうか)と感じる時の秘かな喜びは得がたい感覚である。

 写真であり、平面(壁)であり、物(質的変換)であり、パフォーマンスであり、作業であり、仕掛けであるそれぞれの作家の意図に出会うバザールの面白さを、ごく小さな部屋や建物という限定された空間の中で探して歩く。いわば感性のおもちゃ箱を愉しむ(あるいは試される)という企画。

 それにつけても、小林昭夫先生の作られたBゼミの参加がないことが淋しい。先生が亡くなられて久しいと聞いているけれど、小林先生こそ横浜で美術の変革を身を持って指導なさった前衛(旗手)であるのに・・・。45年前の「かまいたち展」(桜木町/市民ギャラリー)は原点である。

(写真は今回の黄金町バザールを案内して下さったアートテラー/トニーさん)

宮永愛子的予感。

2013-10-13 06:08:15 | 美術ノート
 宮永愛子の作品を見ていると、ドキドキする。

 トランクの透明な美しさは、海の見える背景を取り込み、遠く旅立つ人のロマンを夢想させる。トランクの内包する意味は周知のとおりなのに、そこに重さはなく軽いというより空想の時空に浮遊している印象である。

 奇妙な対象、見たことのない、空想の産物がそこに確かに有る。触手不可の物語が展開している。ガラスケースの中のトランクは時の経過と共に崩壊していく・・・ただし、その崩壊には残骸が残らない。微塵に砕け散り(昇華し)、空中のガラスケースに付着していくトリックは、世界は変化しても世界の質量は不変であるとでもいっているような・・・変遷の時空を垣間見せてくれる一つのショーでもある。

 《騙されまいぞ》として観る視覚が、次第に作品世界に融解していく錯覚・・・意図あるファンタジーに心地よく墜ちていく。

 宮永愛子的予感とでも呼びたい不思議な感覚に酔いながら、海と空の蒼さをバックにした仕掛け(作品)の妙に心を揺さぶられてしまった作品群。つまりは素敵に美しく奇妙な作品との空想的体感である。(NISSAN ART AWARD 2013)より

『ポラーノの広場』118。

2013-10-13 05:36:03 | 宮沢賢治
 やっぱりファゼーロでした。まだわたくしがその酒石酸のコップを呑みほさないうちにもう顔をまっ赤にして戸口に立ってゐました。

 酒石酸はシュ・シャク・サンと読んで、須、釈、惨。
 呑むはドンと読んで、貪。
 顔はFace~Faith(信仰)
 まっ赤はシャクと読んで、釈。
 戸口はコ・コウと読んで、虚、幸。
 立ってはリュウと読んで、流。

☆須/必要とする釈(意味を解き明かす)。
 惨(いたましい)貪(過度に物を欲しがる)は、信仰を釈/薄め、虚しく幸(さいわい)も流れてしまう。

『城』1413。

2013-10-13 05:22:58 | カフカ覚書
「こんなことがあるものだろうか」Kは、自分の無知を恥じるようにひとりごとを言って、もうひと口飲んだ。

 飲む/trnk→trangen/(苦痛などを)耐え忍ぶ。
 einmal→Ahn mal/先祖、汚点(傷痕)

☆「こんなことがあるものだろうか」Kは、なお先祖の傷痕を耐え忍び、咎めるようなひとりごとを言った。