京急の高架下などを利用した個々の空間に選出の作家による作品展示・・・。
美術の概念は根強くわたしのなかを占領している、いわゆる平面から具象彫刻あたりまで。けれど、それらは美術の一分野を占めていることは動かしがたい事実ではあるけれど、状況は更なる変化を見せている。
世界からの情報、あるいは個々からの発信のせめぎ合いが一つの答えを出す抽象的手法。常識を一つカタンと外して見せ、そこに新しい発見を促す。答えを探す誘引は隠れている。けれど、(ああ、そうか)と感じる時の秘かな喜びは得がたい感覚である。
写真であり、平面(壁)であり、物(質的変換)であり、パフォーマンスであり、作業であり、仕掛けであるそれぞれの作家の意図に出会うバザールの面白さを、ごく小さな部屋や建物という限定された空間の中で探して歩く。いわば感性のおもちゃ箱を愉しむ(あるいは試される)という企画。
それにつけても、小林昭夫先生の作られたBゼミの参加がないことが淋しい。先生が亡くなられて久しいと聞いているけれど、小林先生こそ横浜で美術の変革を身を持って指導なさった前衛(旗手)であるのに・・・。45年前の「かまいたち展」(桜木町/市民ギャラリー)は原点である。
(写真は今回の黄金町バザールを案内して下さったアートテラー/トニーさん)
美術の概念は根強くわたしのなかを占領している、いわゆる平面から具象彫刻あたりまで。けれど、それらは美術の一分野を占めていることは動かしがたい事実ではあるけれど、状況は更なる変化を見せている。
世界からの情報、あるいは個々からの発信のせめぎ合いが一つの答えを出す抽象的手法。常識を一つカタンと外して見せ、そこに新しい発見を促す。答えを探す誘引は隠れている。けれど、(ああ、そうか)と感じる時の秘かな喜びは得がたい感覚である。
写真であり、平面(壁)であり、物(質的変換)であり、パフォーマンスであり、作業であり、仕掛けであるそれぞれの作家の意図に出会うバザールの面白さを、ごく小さな部屋や建物という限定された空間の中で探して歩く。いわば感性のおもちゃ箱を愉しむ(あるいは試される)という企画。
それにつけても、小林昭夫先生の作られたBゼミの参加がないことが淋しい。先生が亡くなられて久しいと聞いているけれど、小林先生こそ横浜で美術の変革を身を持って指導なさった前衛(旗手)であるのに・・・。45年前の「かまいたち展」(桜木町/市民ギャラリー)は原点である。
(写真は今回の黄金町バザールを案内して下さったアートテラー/トニーさん)