続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

「ズビネック・セカール展』⑤

2014-02-01 06:51:09 | 美術ノート
 『可動構造』
 
 この形態は何を模しているのだろう。何かを想起させる形ではなく、しいて言うなら「精神」の形かもしれない。
 すっくと立っている、凛とした風情がなくもない。人のようでもある。

 可動とある、つまり、動かせるのである。「自ら動くのではなく他者の力を持って動きます」という意味だろうか。
 しかし、動かせるための装置が曖昧である。仮にこれを人の形態だと仮定しても、口は押さえられ手足は拘束を受けているかのような不自然さで硬直している。可動の予感を否定するばかりで、このものはそこに存在しているにすぎない。可動に必要な要素を髣髴とさせる姿は打ち消され、何か修理された廃材にすら見受けられる。

 しかし、すっくと、あるいは毅然と立つその姿はどこか悲しいまでの美しさが内在していて、鑑賞者はこの作品に透けて見える向こう側を覗き見るようにして空虚を発見してしまう。
 
 わたくしという存在は、確かにここに在る。他者に働きかけることもできるが、ここまで押さえつけられては手も足も出ず沈黙するばかりである。力ある他者も、ここまで硬直したわたしを自由には動かせまい。


 明らかにわたしは可動構造として存在しているが、見ての通りである。わたしを見るものはわたしを透して世界を垣間見ることができる。わたしを透して世界を直視し動かして欲しい。

《わたしは沈黙しているが、実は大いなる叫びを上げている告発者でもある》

*『ズビネック・セカール展』神奈川県立近代美術館/鎌倉別館にて。

『ポラーノの広場』227。

2014-02-01 06:33:33 | 宮沢賢治
失踪者の件といふのは何のことだらう、決闘の件とでも云ふならわかってゐるしその決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デステゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違ひだらうと思ひながらわたくしは室へ入って行きました。


☆悉(ことごとく)双(二つ)の視野(見解)を兼ねている。
 化(形、性質を変えて別のものになる)で結ぶと、套(おおわれたもの)が現われるように運/めぐらせている。
 訣(奥義)を套い、腎(大切な所)を掩(隠す)自記である。
 託して(頼りにして任せる)欠(足りない所))を推しはかる、悉(全て)新しい考えである。

『城』1522。

2014-02-01 05:56:03 | カフカ覚書
もし子供がそんな質問をしたら、笑ってすませますが、一人前の男がそんなことを訪ねたら、これは、お役所にたいする侮辱というものですわ。秘書さんは、思いやりのある返事をして、その点をうまくかばっておあげになりましたがね。」

 笑う/lacht→rachen/復讐する。
 子供/kint→kiez/場末。
 役所/Amtes→Armet/貧民、哀れな。

☆もし場末の先祖にそんな質問をしたら、そのために復讐しますが、先祖に生じたふるまいであれば、哀れな先祖への侮辱です。
 秘密の大群(大勢の死んだ人たち)は、うまくその習慣をやめさせようと、慈悲深くも隠蔽してしまったのです。