『可動構造』
この形態は何を模しているのだろう。何かを想起させる形ではなく、しいて言うなら「精神」の形かもしれない。
すっくと立っている、凛とした風情がなくもない。人のようでもある。
可動とある、つまり、動かせるのである。「自ら動くのではなく他者の力を持って動きます」という意味だろうか。
しかし、動かせるための装置が曖昧である。仮にこれを人の形態だと仮定しても、口は押さえられ手足は拘束を受けているかのような不自然さで硬直している。可動の予感を否定するばかりで、このものはそこに存在しているにすぎない。可動に必要な要素を髣髴とさせる姿は打ち消され、何か修理された廃材にすら見受けられる。
しかし、すっくと、あるいは毅然と立つその姿はどこか悲しいまでの美しさが内在していて、鑑賞者はこの作品に透けて見える向こう側を覗き見るようにして空虚を発見してしまう。
わたくしという存在は、確かにここに在る。他者に働きかけることもできるが、ここまで押さえつけられては手も足も出ず沈黙するばかりである。力ある他者も、ここまで硬直したわたしを自由には動かせまい。
明らかにわたしは可動構造として存在しているが、見ての通りである。わたしを見るものはわたしを透して世界を垣間見ることができる。わたしを透して世界を直視し動かして欲しい。
《わたしは沈黙しているが、実は大いなる叫びを上げている告発者でもある》
*『ズビネック・セカール展』神奈川県立近代美術館/鎌倉別館にて。
この形態は何を模しているのだろう。何かを想起させる形ではなく、しいて言うなら「精神」の形かもしれない。
すっくと立っている、凛とした風情がなくもない。人のようでもある。
可動とある、つまり、動かせるのである。「自ら動くのではなく他者の力を持って動きます」という意味だろうか。
しかし、動かせるための装置が曖昧である。仮にこれを人の形態だと仮定しても、口は押さえられ手足は拘束を受けているかのような不自然さで硬直している。可動の予感を否定するばかりで、このものはそこに存在しているにすぎない。可動に必要な要素を髣髴とさせる姿は打ち消され、何か修理された廃材にすら見受けられる。
しかし、すっくと、あるいは毅然と立つその姿はどこか悲しいまでの美しさが内在していて、鑑賞者はこの作品に透けて見える向こう側を覗き見るようにして空虚を発見してしまう。
わたくしという存在は、確かにここに在る。他者に働きかけることもできるが、ここまで押さえつけられては手も足も出ず沈黙するばかりである。力ある他者も、ここまで硬直したわたしを自由には動かせまい。
明らかにわたしは可動構造として存在しているが、見ての通りである。わたしを見るものはわたしを透して世界を垣間見ることができる。わたしを透して世界を直視し動かして欲しい。
《わたしは沈黙しているが、実は大いなる叫びを上げている告発者でもある》
*『ズビネック・セカール展』神奈川県立近代美術館/鎌倉別館にて。