作品は全てにおいて閉鎖的の感が強い。開かれているが、閉じているのである。どこにも逃げ場がないわけではないが、拘束の壁が自由を阻害している。自由を確認できる時空は限定されている。それが錯覚なのか現実なのかは非常に曖昧だが、確かにそれは在ると断言してもいいと作家は自分に言い聞かせている。
わたくしの自由は、「不自由な壁に囲まれた自身が動くことに不自由を感じない範囲の自由」なのではないかと作家は反問している。目に見えないが強固な壁、あたかも存在しないような様相を呈しているが、一たび自分が動けば必ずそれは作動するに違いない。
ズビネックのパンフレットのこの作品は平面であるが、展開図を疑ってみる。しかし左右を合せても上下を繋げても違うことを目測で確認し、その考えから離れてしまう。
印刷されている都合上、切り取ってそれを確認してみたら・・・。

中に入ったものは、人だと想定することも可能である。その頭と足が少しだけ覗く筒状の囲い、そして出入り口とも言うべき通風可能な隙間もある。そういう立体が出来上がった。

ズビネックの創るものは一貫したテーマから外れることはない。立体として想定、プランしたものを平面に置き換える。しかも固く固定されていることを観念付ける鋲で留められ、縁はきちんと折り曲げてあり、これで完成という風な作品である。
立体にした物から見れば、解体である。
解体が意味するもの・・・解放なのか、終局なのか、隠蔽なのか・・・。ため息の余韻を残す作品である。
わたくしの自由は、「不自由な壁に囲まれた自身が動くことに不自由を感じない範囲の自由」なのではないかと作家は反問している。目に見えないが強固な壁、あたかも存在しないような様相を呈しているが、一たび自分が動けば必ずそれは作動するに違いない。
ズビネックのパンフレットのこの作品は平面であるが、展開図を疑ってみる。しかし左右を合せても上下を繋げても違うことを目測で確認し、その考えから離れてしまう。
印刷されている都合上、切り取ってそれを確認してみたら・・・。

中に入ったものは、人だと想定することも可能である。その頭と足が少しだけ覗く筒状の囲い、そして出入り口とも言うべき通風可能な隙間もある。そういう立体が出来上がった。

ズビネックの創るものは一貫したテーマから外れることはない。立体として想定、プランしたものを平面に置き換える。しかも固く固定されていることを観念付ける鋲で留められ、縁はきちんと折り曲げてあり、これで完成という風な作品である。
立体にした物から見れば、解体である。
解体が意味するもの・・・解放なのか、終局なのか、隠蔽なのか・・・。ため息の余韻を残す作品である。