続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

戯言。

2014-02-23 06:35:39 | 日常
 一週間は瞬く間に過ぎてしまう。(えっ、もう日曜日なの)
 今までの六十七年間ですら空無と帰して(あったような、なかったような)記憶の中で変形凝縮を余儀なくされている。

(ダメだ、ダメだ)と責める気はあっても、座ればTVの他人思考に乗った生活。
 日曜日は「日曜美術館」「ビフォアーアフター」月曜日は「鬼平犯科帳」火曜日は・・・という具合。以前鎌倉で会った男性は「ぼくはTVを見ませんから」と言っていた。(ああ、わたしもそうしたい)

 残りの人生、自分思考で頑張りたい。TVを子守唄にうつらうつらしていては時間がもったいない。それでなくても八時間も布団の中で眠りこけているわたし。「五時間も眠れば沢山」と言っている人もいるのに、(ここを削ればいいのかな・・・)


 長年の習慣を変えるのは難しい。
 けれど、長年わたしの足を引っぱっているのは、惰性と化した怠慢である。瞬く間に過ぎて行くのは一にも二にも怠慢という悪癖にかかっている。為しえない理想を夢見るうちに、月日のほうが澄まして追い越して行く。

 こんな風に閉じていくのだろうか、わたしの人生。
(始めようかな)と思っている、確かに願いだけはある。(明日から)の先延ばし・・・めくるめく過ぎ去る月日、生命の炎が泣いている。

 人生に対する焦りだろうか。最後のあがき?
 ゆっくり食べて、のんびりTVを見て、早目の就寝。贅沢な日常を満喫している人間の戯言である。

『ポラーノの広場』248。

2014-02-23 06:19:11 | 宮沢賢治
「さうです。」
「では訊ねるが、気味はテーモ氏の農夫ファゼーロをどこにかくしたか。」
「農夫のファゼーロ?」わたくしは首をひねりました。
「農夫だ。十六歳以上は子どもでも農夫だ。」警部は面倒くささうに云ひました。


☆仁(博愛や同情の心)を訓(おしえ導く)詞(言葉)である。
 脳(中心)は普く濃(こまやかな)符(記号)を須(必要)とし、納める二つである。
 重ねて録/文字に書き記し、再び委(すみずみまで)の証(うらづけ)の詞(おとば)を納める譜(物事を系統的に書き記したもの)である。
 系(つながり)も無く、綿(細く長くつづく)として套(おおい)運/めぐらせている。

『城』1544。

2014-02-23 06:08:36 | カフカ覚書
「なぜ自分が尋問を受けなくてはならないのか、どうして冗談ごとや役所の気まぐれにしたがわなくてはいけないのか、わたしには納得がいきませんのでね。もしかしたら、このつぎには、こちらもおなじように冗談か気まぐれで尋問に応じるかもしれませんが、きょうのところはいやですな」


☆なぜ自分が尋問を受けなくてはならないのか、先祖の究極の死を定めなくてはならないのか、もしかしたら先祖の死も同じような空間で応じているかもしれませんが、現今ではありません。