続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

一日を愛しむ。

2014-02-19 06:52:03 | 日常
 一日は二十四時間、誰かが「わたしの一日は二十三時間です、なぜなら一時間は走っているからです」と、コメントしていた。
 一時間も走る・・・なんて素敵な習慣なんだろう。

 歩くことがせいぜいなわたし、走るなんてムリ、無理。しかも一時間も走ったらその後疲れ果てて一日は丸つぶれ。
 地道な努力で若さや体力を維持する人の笑顔を正視できない。

 一日という時間を再考してみると、無駄な時間が圧倒的に多い。そうした時間は非常に短縮されて霧消し、意味なく押し出されるように時間のレールに放り出されていることに気づく。

 食べて寝て・・・何か有効な手段で生産活動に参加することもなく、ひたすら消費活動に専念している今のわたし。
 せめて、せめて・・・強迫観念のように背中に圧しかかる思い。


 無為な一日に対する罪悪感、そして襲うように訪れる虚無感。(これでいいのだろうか)正しくゼロ活動。人生の中の負債(子育てでも介護でももっと為すべきことがという後悔)が、時折胸を衝く。
 補いの付かない思いに駆られながら、今日という時間を潰していく。過去に身を投じることは魂の浮遊にすぎないかもしれない。
 
 もっと、もっと・・・背中を押す未知への挑戦。がんばれ、がんばれと!と。子供たちの指針にもなり、天国の両親も納得してくれるであろう生き方はないものか・・・。



 けれど、敢えて言いたい。為すべきを横に置いて、今日という日を静かに愛しむことは無為ではない、六十七才のこの一日をぼんやりした眼差しで甘受してもいいのではないかとも思う。

『ポラーノの広場』244。

2014-02-19 06:42:45 | 宮沢賢治
「第十八等官、レオーノ・キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云ひました。
「さうです。」
「では、こっちへ。」
 わたくしははひって行きました。


☆題(テーマ)は等(平等)、永遠の等(平等)である。
 完(欠けたところのない)施(ほどこし)を尽くすことう遂(なしとげる)薀(奥義)の講(はなし)である。

『城』1540。

2014-02-19 06:17:38 | カフカ覚書
しかし、それは、この調書とはなにも関係のないことであった。モームスは、ちょうどそのとき調書のうえで塩ビスケットを割りながら、ビールのつまみにしていたが、おかげでどの書類も、塩とカラウェーの実だらけになってしまった。

 塩ビスケット/Salzbrezel→Salz/辛辣、blinzen/目をしばたたかせる。
 カラウェー/Kummel→Kummer/深い悲しみ。
 ビール/Bier→bieder/俗物、偽善者。 

☆確実なことは、この記録とは関係のないことであった。モームス(要因)はちょうどそのとき辛辣に目をしばたたかせ、離れていった。偽善者を許し、疲れきり、無味乾燥で辛辣な深い悲しみにあふれていた。