続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

新学期。

2014-04-09 06:26:34 | 日常
 新学期が始まり、ついこの前まで幼児然としていた子が、ランドセルを背負っている。
 
 幼稚園にも行かないでいきなり小学生になったわたし、大きなピンクのボタンを胸につけられ「1年2組ですよ」と教えられたのに、3組の教室にランドセルを置き、朝礼から帰ったら自分のランドセルが見つからずに泣いて帰ったダメな子だった。
 日曜日と夏休みだけが待ち遠しいボォーッとした子供・・・そのまま大人になり、そのまま老女と化しつつある。

 小学生時代、「お母さんよりわたしの方が若い」と言って母親を驚かせたA子ちゃんも、母親になり、子供は新一年生。

 刻々と、過ぎていく不可逆の時間。その時空の中で、否応なく生かされている。時間との競合・・・。


 わたしの新学期、そう老年時代を彩る新しい日々の始まり。胸が騒いではしゃぎたくなるようなプランはないものか。

 制服ならぬ礼服(まがいの)ジャケットを作った。新学期云々というより、終末期だろうか。

『ポラーノの広場』292。

2014-04-09 06:16:06 | 宮沢賢治
わたくしは叮嚀に礼をして室を出ました。


☆定(決まっていて変わらない)、そして寧(落着いている)なのは、雷(神なり)ということである。
 悉(すべて)は推しはかること。

*賢治の根本的な祈願は、「平等であること」「来世では罪は許され、みな神さまであること」に尽きると考えている。

『城』1589。

2014-04-09 06:04:37 | カフカ覚書
それに使いの用事ができしだいすぐにクラムのところへ行かなくてはならないということも、別段決まっているわけではないのです。そうはっきり決まっているものなら、もちろん、すぐに出かけていきますよ。しかし、その点がはっきりしていないのです。かりにわたしが一度も行かなくても、むこうからは、べつになにも注意してこないでしょう。


☆定義はないのです。いずれもすぐに小舟に行かなくてはならないというようなことはないのです。そういう定義があるのなら自然に行くでしょう、しかし、定義はそうではないのです。決して汚点はないと言っても、そのために注意してはこないでしょう。