続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

記憶の崩壊。

2014-04-13 06:42:56 | 日常
 記憶という人間の機能は選択作用がある。覚えなくてはという意志無くしては覚えられない。
 何から何まで明確に記憶することは難しい。目にした景色を、その場を離れても描くことの出来る稀有な人をTVで紹介していたのを見たけれど、頭脳明晰と言われる人もそういう意味の記憶は欠落しているのではないか。
 つまり、《ねばならない!》という強迫観念じみた責務が記憶を促すのであって、その問題に向かって集中するときにのみ記憶という装置は最大限の働きをすると思われる。

 99歳、白寿のお祝いをした後、100歳を待たずして亡くなった母親を看取ったK兄は毎日の食事などを許すかぎり詳細にノートに付けていると話していた。
 高齢になると、保健師さんの訪問によって、
「生年月日?」から始まり、「昨日の夜召し上がったものは何ですか」「ここにハサミとペンと鍵と・・・を置きます。よく見て、覚えておいてくださいね」果たして数分後、それを記憶していられるかどうかを問われるという検査がある。
 K兄は母親の記憶が次第に薄れていく様子をこの検査によって明確に知りえたのではないか。そしていずれ来る日を想定して、訓練しているのに違いない。記録を兼ねた勉強・・・(優秀といわれた自分が答えにうろたえるようなことがあってはならない。どんな質問にも即答できる自分でありたい。そのためには自身の日常を緊張感を持って記録する必要がある)と。

 備えあれば愁いなし・・・。

 確かに忘れがちな食事のメニュー。衝動的に作り、本能的に食べているので、自覚に欠けている。「昨日の食事は・・・」今、これを書きながらようやく思い出したのだけれど、餃子の皮にチーズを包んで焼いたものとサラダ(レタス、キュウリ、新玉葱、人参、ミニトマト)これっきり。(夕食までの間食でお腹はいっぱい状態)

 考えてみると、バランスの取れた食事という観点も視野に入れているかもしれない。とすると、「昨夕の食事は何ですか」の質問は奥が深い。

 年をとっても、いろいろ頑張らなくてはならないことが多くて、生きているって大変!(実際の所、何もかも忘れることが多々あり、思い出そうとすることが何だったか思い出せない昨今。Ah・・)

『ポラーノの広場』296。

2014-04-13 06:30:27 | 宮沢賢治
 次の朝わたくしは番小屋にすっかりかぎをおろし一番の汽車でイーハトーヴォ海岸の一番北のサーモの町に立ちました。


☆字で張(意見を展開する)を番(かわるがわる行う)。
 照(普く光があたる=平等)が奥に逸(かくれている)。
 蛮(未開で荒々しい)鬼(死者の魂)を戒めることを含んでいる。 
 溢れる蛮(未開で荒々しい)は北(逃げて)嘲け、流(さまよう)。

『城』1593。

2014-04-13 06:11:15 | カフカ覚書
それをあすにでももっていって、あすすぐに返事を聞かせてくれることができるかね。すくなくとも、クラムがきみをどんなふうに迎えたかということだけでも、知らせてほしい。きみにそれができるだろうか。そして、きみにそうしてくれる意志があるかね。そうしてもらえると、とてもありがたいんだ。


☆それはすぐにでも伝わるかもしれないし、すぐに死の言葉を言うかもしれない。少なくとも、どんなふうに(死を)迎えるかだけでも知らせてほしい。きみにそうする意志があるのかね。わたしにとって、予言者は大いに価値ある存在なんだ。