『3.25mのクロバエの羽』
何かを表現するときには、もちろん対象物が選択される。しかし、なぜクロバエだったのか。
クロバエは飛行体である。その飛行体の羽を巨大に拡大し平面に置く。すでにこれはクロバエではない。
クロバエの否定である。飛行している空気感の中にこそ、クロバエとしての証明が現存するのではないか。
クロバエという証言がなければ、任意の線状、突起の並列にすぎない。クロバエとしての質感に結びつかない硬質の素材はクロバエを想起できない。羽らしき形状は対象ではなく片側に並べられている。
これはつまり、クロバエの死、残酷にもむしり取られたクロバエの残骸である。
クロバエの生息は、汚物と密接な関係にあり嫌悪すべき昆虫である。追い払うに相当する気の毒な生命体でもある。
それを凝視する作家の眼差しは、それを巨大なオブジェへと変身させ、堂々たる形にして地上に収めた。
クロバエの主張。
《わたしという生命体は、存在として悪なのだろうか》
汚らしい飛行体という考えは、人間側の論理である。
小さくも懸命にその運命を生きざるを得なかったクロバエの一生、墓標のアイロニー。
飛行の叶わない羽を巨大に引き延ばして並べ、俯瞰の形に納めたクロバエの墓標。ブラックユーモアのもの悲しい空気感は、雨風寒暑に曝され作品という枠がなければ人に踏まれる地上に漂う。
しかし、この作品は『詩』としての情念があり、決して踏むことの出来ない人としての傷痕が漂っている。
クロバエであることは必然である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
何かを表現するときには、もちろん対象物が選択される。しかし、なぜクロバエだったのか。
クロバエは飛行体である。その飛行体の羽を巨大に拡大し平面に置く。すでにこれはクロバエではない。
クロバエの否定である。飛行している空気感の中にこそ、クロバエとしての証明が現存するのではないか。
クロバエという証言がなければ、任意の線状、突起の並列にすぎない。クロバエとしての質感に結びつかない硬質の素材はクロバエを想起できない。羽らしき形状は対象ではなく片側に並べられている。
これはつまり、クロバエの死、残酷にもむしり取られたクロバエの残骸である。
クロバエの生息は、汚物と密接な関係にあり嫌悪すべき昆虫である。追い払うに相当する気の毒な生命体でもある。
それを凝視する作家の眼差しは、それを巨大なオブジェへと変身させ、堂々たる形にして地上に収めた。
クロバエの主張。
《わたしという生命体は、存在として悪なのだろうか》
汚らしい飛行体という考えは、人間側の論理である。
小さくも懸命にその運命を生きざるを得なかったクロバエの一生、墓標のアイロニー。
飛行の叶わない羽を巨大に引き延ばして並べ、俯瞰の形に納めたクロバエの墓標。ブラックユーモアのもの悲しい空気感は、雨風寒暑に曝され作品という枠がなければ人に踏まれる地上に漂う。
しかし、この作品は『詩』としての情念があり、決して踏むことの出来ない人としての傷痕が漂っている。
クロバエであることは必然である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)