続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅲ-1-2 硫黄の味方』

2015-09-29 07:07:27 | 美術ノート
 この作家の作品は本質が隠蔽されている。こんなことってあるのだろうか・・・。見せないのに、「どこかで感じて欲しい」という静謐・寡黙な作品。

 たとえば『泳ぐ犬』、動画なら分かる。けれど、明らかに静止画像の部類である。この非常事態が続行されれば、「死」が待っているだけである。もちろん誰も死を想定しないかもしれないが、少なくとも安楽とは無縁である。
 なぜ、この場面ではならなかったのか。地上を走る犬ならば、どこで止めてもOKである。しかし、水上を泳ぐ犬にその選択はない。作家自身の姿勢が浮上する、厳しく問い究める姿勢である。


 一角獣座と名付ける・・・。裸眼(自然な視界)では、ほとんど認識不可能な星座でしかない。確かに在るらしいが、無いも同然の星座。しかし凝視すると、驚嘆すべき事実が隠されている星座、そんな雰囲気が若林奮の作品群なのである。


 『硫黄の味方』という作品があるが、ほとんど意味不明である。山らしきものと犬らしきものとの間に正四角形の面が二つ対象に置かれている(描かれている)。
 これが、「硫黄の味方」と言われても首を傾げるばかり。
 山(火山の噴火)によって硫黄は産出される(自然にある物もあるが)。犬は自身の化身と考えてもいいかもしれない。そこに二つのマス…一方は黄色に着色され硫黄をイメージしている。

 硫黄は燃える石(火薬原料)であるほか、硫酸として様々に利用される重要な酸である。けれど、その硫黄の味方って何?
 硫黄は亜硫酸ガスになると、異臭を放つ。《一般に硫黄臭い》として嫌悪される傾向にある。
 しかし、硫黄自体は無臭である。
 世間一般の嫌悪を免れない硫黄、しかし本当は人間の生活上欠くことの出来ない重要な元素/Sなのだと言っている。

 硫黄は誤解されている。硫黄酸化物である亜硫酸ガスが臭うのであって、硫黄は無臭(無実)だと秘かにも味方しているのではないか。

 若林奮の作品は気づかないような本質を衝き、振動波を感じさせている。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

スーパームーン。

2015-09-29 06:59:23 | 日常
 十五夜を見ることは適わなかったけれど、昨夕の十六夜。薄い雲に隠れつつも、くっきり見えた。
 今のように電気のない時代、夜空に現れる月の存在は大きなものだったに違いない。

 それでも感動は今でも同じ、月を見上げると、何か大いなるものに抱かれているような感慨に包まれる。


※朝刊を見て、《えっ、これってスーパームーンだったの》、直径が1.14倍、明るさは3割ほど増していたなんて!

『銀河鉄道の夜」93。

2015-09-29 06:42:11 | 宮沢賢治
町かどを曲がるとき、ふりかへって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカンパネルラもまた、高く口笛を吹いて向ふにぼんやり見える橋の方へ歩いて行ってしまったのでした。


☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)極みを験(しらべる)。
 現れる講(はなし)に、恒(かわらない)的(目標)を推しはかる。
 講(はなし)に現れる強い法(神仏の教え)は普く幸いである。

『城』2098。

2015-09-29 06:26:46 | カフカ覚書
「あんたがたは、これまでぼくが知ったかぎりでは、ひょっとすると村のだれよりも気だてのやさしい人たちなのかもしれない。」しかし、アマーリア、あんたが兄さんの勤めをでないとしても、兄さんがぼくにとってもっている重要さを軽く見るようでは、またもや思い違いをしていることになるよ。


☆ひょっとしたら、来世の誰よりもぜんにんかもしれない。それだけが今、分かったことです。しかし、アマーリア(作り話/マリア)、あなたの兄さん(北極星=死の入口)の勤めに出ないとしても、その重要性をけなすのは思い違いだよ。