この作家の作品は本質が隠蔽されている。こんなことってあるのだろうか・・・。見せないのに、「どこかで感じて欲しい」という静謐・寡黙な作品。
たとえば『泳ぐ犬』、動画なら分かる。けれど、明らかに静止画像の部類である。この非常事態が続行されれば、「死」が待っているだけである。もちろん誰も死を想定しないかもしれないが、少なくとも安楽とは無縁である。
なぜ、この場面ではならなかったのか。地上を走る犬ならば、どこで止めてもOKである。しかし、水上を泳ぐ犬にその選択はない。作家自身の姿勢が浮上する、厳しく問い究める姿勢である。
一角獣座と名付ける・・・。裸眼(自然な視界)では、ほとんど認識不可能な星座でしかない。確かに在るらしいが、無いも同然の星座。しかし凝視すると、驚嘆すべき事実が隠されている星座、そんな雰囲気が若林奮の作品群なのである。
『硫黄の味方』という作品があるが、ほとんど意味不明である。山らしきものと犬らしきものとの間に正四角形の面が二つ対象に置かれている(描かれている)。
これが、「硫黄の味方」と言われても首を傾げるばかり。
山(火山の噴火)によって硫黄は産出される(自然にある物もあるが)。犬は自身の化身と考えてもいいかもしれない。そこに二つのマス…一方は黄色に着色され硫黄をイメージしている。
硫黄は燃える石(火薬原料)であるほか、硫酸として様々に利用される重要な酸である。けれど、その硫黄の味方って何?
硫黄は亜硫酸ガスになると、異臭を放つ。《一般に硫黄臭い》として嫌悪される傾向にある。
しかし、硫黄自体は無臭である。
世間一般の嫌悪を免れない硫黄、しかし本当は人間の生活上欠くことの出来ない重要な元素/Sなのだと言っている。
硫黄は誤解されている。硫黄酸化物である亜硫酸ガスが臭うのであって、硫黄は無臭(無実)だと秘かにも味方しているのではないか。
若林奮の作品は気づかないような本質を衝き、振動波を感じさせている。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
たとえば『泳ぐ犬』、動画なら分かる。けれど、明らかに静止画像の部類である。この非常事態が続行されれば、「死」が待っているだけである。もちろん誰も死を想定しないかもしれないが、少なくとも安楽とは無縁である。
なぜ、この場面ではならなかったのか。地上を走る犬ならば、どこで止めてもOKである。しかし、水上を泳ぐ犬にその選択はない。作家自身の姿勢が浮上する、厳しく問い究める姿勢である。
一角獣座と名付ける・・・。裸眼(自然な視界)では、ほとんど認識不可能な星座でしかない。確かに在るらしいが、無いも同然の星座。しかし凝視すると、驚嘆すべき事実が隠されている星座、そんな雰囲気が若林奮の作品群なのである。
『硫黄の味方』という作品があるが、ほとんど意味不明である。山らしきものと犬らしきものとの間に正四角形の面が二つ対象に置かれている(描かれている)。
これが、「硫黄の味方」と言われても首を傾げるばかり。
山(火山の噴火)によって硫黄は産出される(自然にある物もあるが)。犬は自身の化身と考えてもいいかもしれない。そこに二つのマス…一方は黄色に着色され硫黄をイメージしている。
硫黄は燃える石(火薬原料)であるほか、硫酸として様々に利用される重要な酸である。けれど、その硫黄の味方って何?
硫黄は亜硫酸ガスになると、異臭を放つ。《一般に硫黄臭い》として嫌悪される傾向にある。
しかし、硫黄自体は無臭である。
世間一般の嫌悪を免れない硫黄、しかし本当は人間の生活上欠くことの出来ない重要な元素/Sなのだと言っている。
硫黄は誤解されている。硫黄酸化物である亜硫酸ガスが臭うのであって、硫黄は無臭(無実)だと秘かにも味方しているのではないか。
若林奮の作品は気づかないような本質を衝き、振動波を感じさせている。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)