大気中(air)、水平方向の視線、つまり大気圏などという高さでなく、生活者の視野における大気中ということで、垂直には地面に留まりその下は想像してみるしかないという範囲の空間凝視である。
もちろん大気は無色透明であり触覚をもって触ることは不可である。しかし、自身を固定した位置から空気の流れを観察し、記録めく質的変換を図るという構想に基ずく作品群であるに違いない。
観察者としての存在意識、存在の原初に立ち返る風景が、即ち『大気中の緑色に属するもの』なのだと思う。
確かに現在ある物を除けると、見えるのは緑なす地球の大地、山々、川や道のほかは何もない。
緑に属するというのは何を指しているのだろう。
大気中の光の三原色は、赤・青・緑である。この大まかな分類に寄れば、山や樹木や草木の植物群に川や海の青緑も含まれ、緑の黒髪ともいうべき暗色も属の中に含まれてくるかもしれない。
♪緑のそよ風~♪と歌われる風も緑に属すのではないか。
相対的に考えると、緑とは『自然』だと換言できる。
悠久の昔から現在に至るまでの自然の在り方、接し方、対話が作品のテーマかもしれない。
立方体の集合、長い角柱に見える変遷、計測された斜面、円筒形の物体、長方形の平板ではあるけれど膨らみを持った物の連鎖etc…それらが時に形を変化させて並べられている方形の中の景色は無機的であり、緑と題さなければ、有機的な影は微塵も感じられない。
しかし、敢えて『緑色に属するもの』と宣言している。ゆえに敢えて感じ得る感想を述べるならば、ここには『時間』と『人間の連鎖』と生命の要である『水管』と『山や集落の風景』を相対的に模した景色だということが出来る。
緑を理想化するでもなく、ただ在るように地上の生活圏の空気をスケッチした風景である。
1st,2st,3stとあるのは、時代を遡って古代へ続いていくプロセスのように見える。
作品は鉄の使用によるものだろうか、時間を経て酸化され錆びて崩れていく。やがては土に還るかもしれないという想定。
時間(歴史)に於ける人間の連鎖に、不可欠な緑(光合成による酸素)の存在。生命の誕生と共に密接な関係を保持している緑(植物群)。
水と空気(酸素)と硅酸塩・・・人間を含む動物と植物と岩石の関係。若林奮の作品群は存在の原初の風を体得すべく苦慮した軌跡のような気がする。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
もちろん大気は無色透明であり触覚をもって触ることは不可である。しかし、自身を固定した位置から空気の流れを観察し、記録めく質的変換を図るという構想に基ずく作品群であるに違いない。
観察者としての存在意識、存在の原初に立ち返る風景が、即ち『大気中の緑色に属するもの』なのだと思う。
確かに現在ある物を除けると、見えるのは緑なす地球の大地、山々、川や道のほかは何もない。
緑に属するというのは何を指しているのだろう。
大気中の光の三原色は、赤・青・緑である。この大まかな分類に寄れば、山や樹木や草木の植物群に川や海の青緑も含まれ、緑の黒髪ともいうべき暗色も属の中に含まれてくるかもしれない。
♪緑のそよ風~♪と歌われる風も緑に属すのではないか。
相対的に考えると、緑とは『自然』だと換言できる。
悠久の昔から現在に至るまでの自然の在り方、接し方、対話が作品のテーマかもしれない。
立方体の集合、長い角柱に見える変遷、計測された斜面、円筒形の物体、長方形の平板ではあるけれど膨らみを持った物の連鎖etc…それらが時に形を変化させて並べられている方形の中の景色は無機的であり、緑と題さなければ、有機的な影は微塵も感じられない。
しかし、敢えて『緑色に属するもの』と宣言している。ゆえに敢えて感じ得る感想を述べるならば、ここには『時間』と『人間の連鎖』と生命の要である『水管』と『山や集落の風景』を相対的に模した景色だということが出来る。
緑を理想化するでもなく、ただ在るように地上の生活圏の空気をスケッチした風景である。
1st,2st,3stとあるのは、時代を遡って古代へ続いていくプロセスのように見える。
作品は鉄の使用によるものだろうか、時間を経て酸化され錆びて崩れていく。やがては土に還るかもしれないという想定。
時間(歴史)に於ける人間の連鎖に、不可欠な緑(光合成による酸素)の存在。生命の誕生と共に密接な関係を保持している緑(植物群)。
水と空気(酸素)と硅酸塩・・・人間を含む動物と植物と岩石の関係。若林奮の作品群は存在の原初の風を体得すべく苦慮した軌跡のような気がする。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)