続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅰ-4-d1』

2015-09-11 06:32:38 | 美術ノート
 自分の立ち位置から左右に直線的に別れ、それぞれが焦点を結ぶ道。
 上部(天井)は空でなく同質のもので塞がれた空間、つまりトンネル状の空間である。

 これを一つの視野の治められる場所というものは稀有であって、少なくともわたしの経験では皆無である。この状況に立っていると考えると、視点は分散され自身が分割されていくような奇妙な感覚を味わうのではないか。この景色との遭遇は、ある種の錯覚とも思える。もちろん、限界というギリギリの角度はあるに違いない。

 視野における限界はひどく神経を昂らせるものになる。認識の問題でもあるけれど、想像の補足というものもあるのではないか。
 この奇妙な、しかし可能な限り現実であるとするこの光景。

 あるがままの自然と見ることの可能性の接点は、見る者に精神的な揺れ(振動)を与えるが、この二本に分かれた道の一方を進めば、見える風景は見慣れたものに回帰していく。

《この一点における立ち位置の感覚》である。

 この作品の光景に空や樹木や建物の遮蔽物があれば、それはまた別の風景であって、この鋭敏な密度を持った空間ではなくなる。


 この全くストレートに二つの求心力を持った道の岐路に立った時の胸の鼓動は想像してみるより術はないが、『見ること』の限界とスリルは、若林奮が提示したこの図から追体験できるのではないか。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『銀河鉄道の夜』75。

2015-09-11 06:25:53 | 宮沢賢治
ほんたうにこんなやうな蠍だの勇士だのそらにぎっしり居るのだろうか、あゝぼくはその中をdこまでもあるいt見たいと思ってたりしてしばらくぼんやり立って居ました。


☆闊(ひろびろとしている)幽(死者の世界)の姿は巨きく自由である。
 普く幻の姿で流(一か所にとどまらない/さまよう)、虚しい。

『城』2080。

2015-09-11 06:17:19 | カフカ覚書
薪を投げだすと、いかにもこだわりなさそうにKに挨拶をし、いきなりフリーダのことをたずねた。Kは、それごらんなさいと言わんばかりの眼差しをアマーリアのほうにむけたが、相手は、自分の負けだとはおもっていないふうであった。


☆冥府を撃退すると、いかにもこだわりなさそうに、Kに挨拶をし、すぐにフリーダ(平和)のことをたずねた。Kは先祖の眼差しを通してアマーリア(作り話/マリア)のほうを向いたが、彼女は否定していないように見えた。