続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『Ⅰ-3-1日の出、日没(グラマンTBFを見た)』

2015-09-05 07:06:25 | 美術ノート
 日の出、日没…太陽の運行というより、地平線への意識である。
 一日一回、未来永劫変わりなく起こりうる現象としての日の出、日没。存在の基盤、刻々と姿を変える風景、地球を包む空気の振動はここに始まりここに終わる周期的リズム。

 存在するものはそこに厳然として在るが、(太陽の運行/日の出・日没)によって周囲の空気には変動がある。視覚でとらえようとしても不可能なほどの微細な変移が時空を変転させていく。しかし、日の出、日没の大いなる自然の約束は不変である。
 作家自身がこの空間に包まれ、しかも一部であるという認識が存在と連続のイメージを想定させたのではないか。

(グラマンTBFを見た)というのは、作家自身の記憶によるものだろうか。戦闘機である飛行機を俯瞰しているが、ここにアメリカ海軍としての星は消されている。
 この戦闘機は動かぬように固定されている。(精神的な征服だろうか)戦艦『大和』を撃沈した憎むべきTBFである。手前の六個の物体は魚雷だと思うが、すべてこの作品の中で制圧されている。

 地平線(水平線)近くを飛行していたであろうグラマンTBFの恐怖。

 日の出、日没の景色の中で人の運命は翻弄され、生死を余儀なくされていく。可視という時間帯の静けさ。

 日の出、日没…あきらかに地平線への視線であり、すなわち地球そのものを視野に入れた山や海の輪郭への執着ではないか。

 日の出、日没という規則的な時空の中で太陽系の惑星であるわが地球は運命づけられている。その決定された時空の中での厳存と内的自由、その結果である歴史の中の戦争。
 重ねられた歴史の中に現在があるが、日の出、日没の自然の理は不変である。
 ・・・しかし、振動の重い、不穏な空気は拭えない。


(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)

『城」2074。

2015-09-05 06:12:34 | カフカ覚書
わたしは、そのことだってよくわかっています。dも、いまでは、わたしがなにもかも招致しているのですから、これからはあまり窮屈にお考えにならないで、しょっちゅう来てくださってもかまわないのです。わたしが申しあげたかったのは、このことだけですわ、と。Kは首を横にふって、自分はすでに婚約した身だ、と言った。


☆今ではアマーリア(作り話/マリア)は、すべてを知らなくてはなりません。預言者をそんなに厳しく受け止めることはありません。ただこの事だけを言いたかったのです。Kは首を横にふり、自身の嘘を忘れないようにと注意した。