『哲学者のランプ』
蛇のようにくねくねと曲がりつつ台座に上ったロウソクと、男のパイプにまで伸びた鼻(パイプで自らの鼻息を吸う?)を持つ自画像の眼差しは、こちらを窺うように見ている。
光は強く当たったいるが、背景は漆黒である。
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。(『創世記』より)
女は「ヘビがわたしをだましたのです」と、答えているが、ヘビは「善悪を知る者となるでしょう」と予言している。
一方自画像の男は『これはパイプではない』といったパイプに象徴される彼の主張を、そのパイプで吸引している。そのことを中心に思考を巡回させているということだろうか。
「解っているかね」とでも言うかのように、こちら(鑑賞者)を窺っている眼。
作画の中の強い陰影、ろうそくの炎は大きいが、照らす明かりは微弱である。この強い陰影の光源は、哲学者の持つ《信念》だと思う。
虚空(無)の中で、答えを探し求めている彼の自嘲でもある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
今日は第一週の水曜日『歩こう会』の実施日である。
鎌倉切通しなどを通る十キロ以上のアップダウンのある行程・・・風邪の治りきらない状態で無理はできない。さんざ迷った挙句、やっぱり…残念だけど、休ませてもらうことに決めた。
この会の発足は十年位前、今思うと、少なくとも今よりは若かったんだと苦笑してしまう。(どんなことがあっても休まない)決意の敢行だったのに。
それを躊躇するようになってしまった・・・。
一昨年の暮れ、やっぱり鎌倉で18キロばかりのアップダウンに後々支障が出て半年ばかり元の状態に戻らなかったという経由がある。
(ダメだ、ダメだ。もう無理は利かない)
35キロを難なく愉快に歩く人と一緒のレベルに考えてはいけない。
本当に残念な末路(?)をいくわたし・・・自分のペースで・・・(はい、承知しております)
と、いうわけで、今日は掃除にでも集中してみようかな。せめて・・・。
『飛葉と振動』
台座の上に頭部だけを出した白い布にくるまれた人体と幾本かの様々な棒状のものが林立している。ただそれだけの漠たる光景である。
飛葉は樹木から離れた葉のことであり、つまりは葉の終末である。消滅しつつある死へ向かうしかない在りようの刹那である。
振動とは揺れ動くことであり、一定の周期をもって運動を繰り返すことである。つまりは生命のリズムであり、生の証明である。
《頭部だけ出した、白い布にくるまれた人体》と《木の葉を落とした樹木の林立(飛葉に主眼)》の対峙。
すなわち、生と死の狭間である死への覚悟、死に向かうものの仮葬ともいうべき愁然の光景である。
この作品を思うたびに、胸につまされ慟哭の思いに駆られてしまう。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「さあ、」ジョバンニは困って、もぢもぢぢてゐましたら、カンパネルラは、わけもないという風で、小さな鼠いろの切符を出しました。
☆魂(たましい)は、普く照(あまねく光が当たる=平等)である。
蘇(よみがえり)を接(つなぐ)浮(一定していないもの)を推しはかる。
彼は官房に出入りすることを許されている。お望みなら、控室といってもよろしい。じゃ、控室だとしておきましょう。しかし、そこには、さらに奥に通じるドアがあるはずだし、柵だって、その気さえあれば、通りぬけていくことができないわけじゃない。
☆彼は秘書局へ行くことを許されている。望むならば、先祖の控室と言ってもいい、先祖の控室だとしておきましょう。しかし、そこにはさらに先の企てがあるはずですが、障害だって、その気になれば通り抜けられるのです。