続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

毎日が日曜日。

2016-03-27 07:39:33 | 日常

 毎日が日曜日状態の高齢者、今日が日曜日であったことに奇妙な感慨を覚えてしまう。

 そうか、今日は日曜日だったのか。

 だからと言って、どこへ行く当ても何をするのでもない日常の凡庸。
 日曜日も何もなく忙しく働いていた日々、夜の十時になって「さぁやるぞ!」とはじめた内職は、夜中の三時になっても朝になっても終わらない。
 そうして、いつもの生活の渦に巻き込まれていく。

 もっときめ細かい子育てができていたなら、もっと優しい介護ができていたなら…後悔は山のようにある。
 実感することは《時は人を待たない》ということである。

 精神のあり様が大雑把すぎて、何もかもが乱雑なまま今日に至っている。そのせいか、時々・・・誰に言うでもなく「ごめんね」とつぶやいている。
 後ろ向きな日曜日のため息・・・。


マグリット《無限の認識》

2016-03-27 06:55:49 | 美術ノート

 《無限の認識》
 地平線が画面の下方に在り、雲の多い空中を二人の紳士が散歩(?)、浮遊している。
 二人は、酷似していることから一人の人間の分解に見える、換言すれば自問自答である。

 無限・・・地球は有限である。無限を考察するならば、地球外に答えを求めなければならない。
 終わりのない道、線であり面である二次元、あるいは三次元の終結は地球内においては考えられるが、宙の計測基準はどうなのだろう。
 何かに突き当たる(例えば太陽など)ものとの距離は測れるが、終結点のない対象への計測はあり得ない。あり得ない距離、有り得ない空間を《無限》と呼ぶのであれば、認識を可能にすることは困難である。

 《人はどこへ行くのだろう、どこまで行くのだろう》

 この故知らぬ不安が無限の根拠かもしれず、絶対という根拠を根底から否定される。
 人は存在し、考える。しかし、人は宇宙の塵となり霧消していく極小の点に過ぎない。

 無限の中の個、個の中の無限・・・尽きることのない思考の果て、無限の認識は答えを結ばない。


(写真は『マグリット』(株)東京美術より)


『城』2270。

2016-03-27 06:28:36 | カフカ覚書

「ただそれとはなしにほのめかしはしますがね。はっきりしたことは、なにも聞いていませんよ」
「橋屋のお内儀さんも、なにも話しませんでいたか」
「いや、なにも聞いていませんね」
「そのほかのだれからもお聞きになりませんでしたか」
「ええ、だれからもね」
「当然のことですわ。どうわたしたちのことを話すことができましょう。だれだって、わたしたちのことを知っています。ほんとうのことにせよ(もっとも、みなさんがほんとうのことを知ることができる範囲内においてですが)、あるいは、すくなくとも人から聞いたか、たいていは自分でつくりあげた根も葉もないは葦にせよ、とにっく、なにがしかのことは知っています。そして、必要以上にわたしたちのことを考えています。しかし、だれも、それをあからさまに話すことだけはしないでしょう。こういうことを口に出すのは、はばかれるのです。


☆「いいえ、なにも聞いていません「それ以外にもですか」「なにも聞いていません」
 「当然のことです。どうしてわたしたちのことを話すことができるでしょう。たいていの人たちがわたしたちのことを知っています。本当のことにせよ、そもそも、少なくとも人原訊いたか、多くのうわさを聞いたか、そして必要以上にわたしたちのことを考えています。けれど、それを正しく物語る人は誰もいないでしょう。口にすることを恐れているからです。