花粉症を発症してから、すでに三十余年。
最初は何の症状かわからず、くしゃみ・鼻水・目のかゆみなどのため、耳鼻科を回ったけれど、
「鼻も耳の中もきれいですよ」と言われたり「眼精疲労でしょう」などの診断。
最終的には「念のため血液検査をしておきましょう」ということで《スギ花粉症(植物アレルギー)》と判明。
「まぁ、間もなく雨期ですから、薬はいいでしょう」と医師。
それから数年、アゼプチンというアレルギー疾患の薬を処方され、次第に症状は軽く改善。薬に縁は切れたものの、この季節になると、やっぱりくしゃみが止まらない。
この程度のことは放っておこうと思うけれど、だらしなく垂れる鼻水に苦笑している。
放っておけないほどひどい症状が出る息子を見ると気の毒でならない。花粉症+風邪ひき・・・今日はどうしているだろうと危惧している。
・・・午後からは博物館の遺跡探訪に出かける。
気を紛らせて自分の調子を図っている。関心の薄い聴講生、引率する先生には申し訳ない気持ち。
『礼節の教え』
〈礼儀と節度を守る〉とは、出すぎても引っ込みすぎてもいけない適当な程合いの言動を言う。
遥かなる地平線をバックに、岩石と樹木が並び立っている。この光景に『礼節の教え』があるという。
岩石は、古来から存在する地殻の一部である。
樹木は、それに比べれば新参の植物(生物)である。
双方とも《自然》であり、それに対峙するのは更なる新参の《人間》である。
岩石と樹木の関係を問うなら、新・旧であり、無機・有機の関係にある地球の基軸を担うものであり、人は地殻(岩石)の上に立ち、植物(樹木)の光合成により酸素を得て生きている。
自然は人類にとって必要不可欠なものであり、自然なくして人類の存在はない。。
等しく並ぶ岩石と樹木に、等しく恩恵を受けている人類。
大地(岩石)や樹林の山河を破壊することなく、自然への敬意を払う礼儀と守るべき節度をもって暮らしていかなければならない。
自然には、黙して語る大いなる教えがある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「もうじき鷲の停車場だよ。」カンパネルラが向ふ岸三つならんd小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云ひました。
☆終(命のおわり/死)の態(有様)の赦(過ちや罪を許し)浄(きれいにする)講(はなし)である。
含(内にふくむ)散(バラバラ)の章(文章)に算(見当をつけて)書いている。
字の図りごとが現れるように各(それぞれ)運(めぐらせている)。
とにかく、城にはそういう官庁がある。そしてバルナバスは、それに向かって進んでいく。他には誰もいない。彼ひとりです。かわいそうなくらいひとりぼっちです。これまでのようなやりかたをしていて、彼があの官房の暗い片隅で世間から忘れられたようにぽつねんとうずくまったまま一生を終わらなかったとしたら、彼としてはたいへんな名誉ということだと言えるでしょうな」
☆とにかく、そこには官庁があり、バルナバス(生死の転換点)はそれに向かって進んでいく。他には誰もいない。
慈悲と威厳のあるすべての先祖が秘書局の奥まったところで悩み続け、行方のわからない先祖と思われる生涯でないならば、大変な尊敬に値することです。