続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

池内 紀という文学者。

2016-03-30 09:54:57 | 日常

 新聞(日経)を読んでいたら、池内紀という文学者のエッセイが載っていた。

 先生の人との交流の温かさを示す手紙の保管、昨夕は若い日に読んだという「人生最期の日々」の読み古され、セロテープで繕った本。
 どちらも衝撃的な感動を覚えた。

 大雑把で不勉強、お気楽で《見ないで捨てる方式》のわたし、自分を捨てたら、さぞさっぱりするだろうという考え。

 一流の人は、物に対する処し方が違う。

 感動を覚えた池内紀先生のエッセイ、今夕もあるのかな。


マグリット『すみれの歌』

2016-03-30 07:21:25 | 美術ノート

 『すみれの歌』
 石化した紳士が二人、石壁、岩場の荒れ地に立っている光景、これを『すみれの歌』と称している。二人とも足を踏み出そうとしている、進行形のまま時が止まってしまったようである。

 かつてポンペイの遺跡から空洞を固めて見たら人型が現出し、当時の生活状況などが判明したという報告を見たことがある。

 現代もまたずっと遠くの未来から見たら、このような形で発掘されるかもしれない。
 すみれは小さな野草である。『すみれの歌』というのは、微かな声の暗示ではないか。(スミレの花言葉は「謙虚/つつましやか」)
 この光景に小さな声がする。この紳士(男)から垣間見える時代の名残り、主張などは、小さなすみれのつぶやき位にしか相当しないということかもしれない。
 ある日突然時空が遮断される、それは死と呼ばれる。どこかへ行こうとしてその前に終わってしまう人生の息遣い。

 時代の集積は、必ずしもすべてを包括しない。削られ、忘れられ、あるいは人型くらいは何かのはずみで発見される奇跡があるかもしれない。

 マグリットの自嘲である。
 


(写真は『マグリット』西村書店刊)


『銀河鉄道の夜』268。

2016-03-30 06:35:51 | 宮沢賢治

「あら、こゝどこでせう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり中にばかりの眼の茶色な可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。


☆章(文章)の念(思い)は等(平等)を示し、願っている。
 査(明らかにする)化(形、性質を変えて別のものになる)で、相(二つのものが同じ関係にあること、互いに)叙べる詞(ことば)であることを告げる。
 我意を問う記であり、(あまねく光が当たる=平等)の念(考え)が、溢れている。
 普く、詞(ことば)を疑うと、双(二つ)の我意が現れる。


『城』2273。

2016-03-30 06:21:25 | カフカ覚書

どうしてもあなたに知っていただきたい、と言いますのは、そうしないことには、わたしたちの置かれている状況がよくわかっていただけなくて、あいかわらずバルナバスにひどいしうちをなさるでしょうから。わたしにはそれがとくに辛いんです。そして、そうなると、わたしたちは、必要な一致協力ができなくなって、あなたは、わたしたちを助けてくださることもできなければ、さしでがましいかもしれませんが、わたしたちの援助をお受けになることもできないでしょう。


☆あなたはそれを知るべきです。さもないと、わたしたちの状況(苦境)はそのままであり、バルナバス(生死の転換点)に対して、正しくないということでわたしを苦しめます。
 必要かつ十分な合意ができなくなり、あなたはわたしたちを助けることもできず、わたしたちの助力を受けることもできないでしょう。