何ともいえず美しい鳴き声である。
鳴き声ばかりが耳に残るけれど、その姿をまだ見たことがない。ウグイス色をしたメジロが花の蜜を吸うのを見て、(あれがウグイスか)と勘違いをしたこともある。
小鳥は夜が明けさえすれば、そのさえずりを惜しげなく披露し、聞く人の心を和ませる。
ひたすら耳を澄まして聞いている。
考えてみると若いころは鳥の鳴き声などに無関心でだったかもしれない。
あのえも知れぬ美しい鳴き声に、酔い心地になれる今の時に感謝している。こういう暇な時間に見舞われる人生の時期というものが来るのだという感慨に浸っている。
すでに桜咲く春である。
老いていくことに戸惑いを感じるよりも、今日の新しさに目を見張る好奇心をもって暮らしたい。
『軽業師の休息』
アクロバット…想定外の動き、予想外の超人的機能を披露する人の休息とは何だろう。
重力圏内に生きることを常としている人にとって、あたかも重力を感じさせないような動きは、大いに驚嘆させられるものである。
軽々と飛び越えたり、身体を物のように屈折させたりする動作は、不思議であり奇妙な興奮状態を喚起する。軽業師の心身の疲弊を思うと切ないほどである。
その身体のすべての装飾を取り払った裸体をバラバラに切断し石壁に埋め込んでいる。物質(無機質)との同化は、室内(人為)の空間にあるが、影は人工の明かりによるものか、あるいは外気によるものかは判別不能である。ただ背後には空か海かの自然の暗示があり、自然に背いているとも言える状態である。
物のように疲弊し散在したかの身体は、石壁に同化し固まっている。しかし、休息というからには再び抜け出してくることを意味しているのだろうか。
女の顔、胸部、下部、性的器官を曝している・・・肩は男のようでもある。他は形を成さず、失われた部分(足、足首)は質的変換を図ったような流動体に溶け込んでいるのだろうか。
ピエロのような哀愁はなく、即物的にそこに在るというだけである。
意表を衝く軽業師の演技は、重力に逆らい、身体機能の極限に迫る動きを要する。
動かざる石に同化することこそ、最高の安らぎ(休息)ではないかと、石壁にはめ込んだ軽業師の切断された身体。しかし、どこまでも観客を喜ばせる肉体を張った表現がある。
軽業師の執念、恥辱を捨てた身体表現は石壁に同化しても尚その精神を貫いている。
隠さない、極限まで曝しとおすことの凄まじさを冷たい石壁に同化させ、休息と名付けたマグリットの冷徹な眼差しに感服するものである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考へて振り返って見ましたら、そこいhもうあの鳥捕りが居ませんでした。
☆溢れる他意は化(形、性質を変えて別のものになる)を腎(大切なところ)として推しはかる。
罰(罪や悪事などに対する懲らしめ)の講(はなし)である。
申(述べること)が変(移り変わる)を兼ね、懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)補(たすけること)を挙(くわだてている)。
「しかし、それは、間違った畏敬の念なのです。そういう畏敬は、かえって相手の名誉を傷つけるものです。
☆しかし、それは、間違った方向へ導く畏敬の念なのです。場違いな畏敬の念なのです。そういう畏敬の念は彼女の尊厳を冒すものです。