『ゴルコンダ』
立派な近代建築の建屋の空中に任意の酷似した紳士が数多散在している光景である。
建物の落ちた影を点検すると、同じ身長の紳士の影に差異があり、平面に描かれた空間の中の紳士たちの位置関係や大きさには(光源が一つ/太陽であるとして)驚異的な落差が潜んでいることが判明する。
つまり、同じような外観をもつ紳士たちは、巨大・極小の混在であり、しかも空中に立ち姿でいるという不思議な現象をもたらしている。
豊かな階層を思わせる規律ある着衣である。生産に携わる労働者ではないことは明らかで、換言すれば搾取の立場にあるといってもいいかもしれない。
その彼らがゴルコンダという街の空気に浸透し、領域を占領している。
酷似した彼らは左右あるいは前を向き、背後を振り向くものは見当たらない。熱意のない無関心な体である。
この空気感…怠惰というのでもないけれど、慢性化された日常風景の中には脅威が垣間見える。墜落・下落・下降の惨状は、浮遊するものの宿命である。
降る雨のように地上に堕ちる群衆を予測することは浮遊している以上、必至の想定ではないか。
今日の安穏が明日も続くとは限らない、危機感を平和に描いたマグリットの皮肉である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ところがそれはいちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしまふやうな気がするのでした。
☆告げる双(二つ)の模(ありさま)がある。
衷(心の中)の問は辞(ことば)に隠れている。
察(あきらかにする)と現れる化(形、性質を変えて別のものになる)の注(意味を明らかにする)を究める己(わたくし)の記である。
そうだとしてもですよ、これらの手紙は、すくなくともぼくの仕事になにかしら関係をもっている。ことによるとぼくの利益になるように書かれたものではないかもしれんが、ぼくあてに書かれたものであることは、はっきりしています。
☆そうだとしててもこれらの書き物は、わたしの現場不在証明になにかしら関係がある、ひょっとしたら、わたしに必要であると定められていないかもしれない。それでもわたし宛だということは確かです