続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

六〇余年の格差。

2016-03-16 17:01:23 | 日常

 お留守番のおみやげに『小学一年生』を買って来たら、
 小さな声で「二つ目」と二本の指を立てた。

 すでに購入済みの本を買ったらしい。それでも気を取り直し付録を見てみると、立派な時計(妖怪ウオッチ)。ボタンを押すと「何時・何分」と、時計の針のさした時刻をかわいい声で告げる仕組みになっている。

 六〇余年前の付録は、ボール紙の時計で、針は自分の指で動かす仕掛け(?)に過ぎなかった。
 まさに、隔世の感。

 本には、ファッションや持ち物の宣伝まである。入学式当日の親子の服装にいたるまで懇切丁寧。
(本当に驚いちゃったよ)

 時代が違うって、こういうことなんだ。わが子の時には黒の礼服一つあればOKだったのに、今のお母さんは色とりどりの艶やかさである。六〇余年前のわたしの入学式には母親は黒の羽織、当時は着物のお母さんが多かったように思う。

 とにもかくにも、キヨちゃん、小学校入学おめでとう。
(絵はスカイツリーとのこと)


『ピーターラビットの絵本』

2016-03-16 16:39:45 | 日常

 昨夜は父親の帰りが遅かったので、わたしが寝かしつけることになった。
「さあ、寝ましょう」というと、「本を持ってきたから、それを読んで」という。

 一冊目は『真夜中のサーカス』、「もう一冊!」というので、見ると三〇年以上も前に長男に買った絵本、それを次男の子供が見ているらしい。
『ピーターラビットの絵本』(ビアトリクス・ポター著・いしいももこ訳)の「のねずみのチュウチュウおくさんのおはなし」を読み始めたら、ちょっとした誤りも訂正させれる始末。息子いわく、もう何十回も読んでもらっているので暗記しているという。

 読んでいるうち気づいたのだけど、この主人公の奥さん、侵入者を怒ったり、邪魔にしたり、追い払ったりと、優しくない。きれい好きで掃除が大好きなチュウチュウおくさん、お手本になるような立派な人でなく、ごく自然態なのである。
 孫に聞いてみた。
「この本のどこがいいの?奥さん、優しくないしさ。最後にちょっぴり優しいけど・・」というと、
「そこがいいんじゃないか」という。
「ふうん、そうなんだ」(世界のロングセラー、リアルさが共感を得ているのかと、納得)
 六歳児の感想に教えられた六九歳。


マグリット『真夜中の結婚』

2016-03-16 15:32:50 | 美術ノート

 『真夜中の結婚』
 真夜中の結婚とは何を意味しているのだろう。
 結婚とは一般的には成人男女の性的関係、家族としての基本的形態を意味するものであるけれど、時間を指定する根拠はどこにあるのだろう。
 真夜中・・・夜の真ん中、例えば0時などを指すと思うが、この場合は精神的な真夜中、例えば時間の狭間、時間を超越した時空を意味しているのではと思われる。

 この空間をよぎる不定形な空間を流線形に固めたような奇妙なものは説明がつかない。

 あけがた近くの苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る。(『青森挽歌 三』宮沢賢治)

 心理的な感覚を物理的な現象に置換したものなのだろうか。
 背景の樹木が逆さに描かれているが、前景と後景では時空が切断されている。自然の理をもってすれば、不条理な幻想空間にほかならない。

 ものはみな/さかだちをせよ/そらはかく/曇りてわれの脳はいためる(『歌稿』より・宮沢賢治)

 手前の台座には、上に男の後頭部、中段には金髪のかつら(実体がない)が置かれている。結婚という題名から、男女を想定してみるが、そういうことではないようである。
 明らかに人為的な領域(ベランダ)であり、虚空を映した鏡が傍らに置かれている。

 これら条件を指して『真夜中の結婚』と名付ける。
 真夜中の混沌、超自然の景色。どちらがどうというのではなく、重力と無重力、逆さであると認識する根拠を並べて一つに見なす。
 つまり、積み重ねられた観念からの解放である。現実と幻想空間の合体、結婚という観念的な制度を外した自由な合体がこの画面の中に在る。
 人間的な温度を感じない世界、奇妙な幻想との合体。
 思考は迷路を彷徨する、いわく言い難い驚愕(混乱)は、超自然との結びつきを言うのかもしれない。


(写真は『マグリット』西村書店より)