タブレットが壊れた!
真黒な画面・・・何も映らない。どうして、なんで?
ガタガタ騒いでも始まらない。行動力の鈍った老人なのに、とっさに判断を下した。
「ヤマダ電機へ走ろう」解決方法はこれしかないとばかり電気屋へ。
タブレット三台目。
日暮れて見れば、(今日は一体何だったの)と言うぐったり感。
情けないよ、無知って。世の中どんどん新しくなっているのに、付いていけない。
超便利、でも超無知なわたし。タブレットが壊れたぐらいで大騒ぎ。
一台目は息子のプレゼントだった。これを知らなければ、今日の騒ぎは起こらなかったと思うと、何にもない頃が懐かしい。時代の波のおこぼれに預かりながら、転覆しかけて泡を吹いている。
息子たちのこと、そのファミリーのこと、いつも心配している。
食事はきちんと摂っているだろうか、睡眠は十分だろうか・・・事故のないよう無事な日々を過ごしてほしい。母の心配は尽きないが、彼らはわたしの心配など無頓着に違いない。
もちろん、それでいいのだけれど、《いい人生を、納得できる人生を》と願っている。
自分をなくして家族のために生きる・・・ずうっと、そうしてきたような気がする、そんなに殊勝ではなかったかもしれないけれど。
それでも今、
記憶力もほとんど機能しない昨今、(何をどうする)というほどの考えもなく劣化の一途のわたし。それでも、自分のために生きてみたいと思う。
こんなことを思うのは、意欲が著しく減退しているからだろうか。なんとか自分を奮い立たせようと自分を騙しているのかもしれない。
年老いて、足元もおぼつかないお婆さん、《まだやる気》の妄想を抱いています。
街ですれ違う人には(このお婆さん、いつ死ぬのかな)なんて目で見られているかもしれない。
それまで、それまで・・・。
『空気の平原』
奇妙な題名である。空気は見えるべき形態を持たない、したがって、平原という固定化はない。
肥大化した一葉が岩だらけの荒れ地にすっくと立っている。岩の荒れ地から生えている、ほかの生物は見当たらない。
空の上方は怪しい雲行きだけど、どこか清涼感がないともいえず、覗く青空と下方は白雲が平らに広がっている。
岩地に肥大化した奇妙な一葉が生えているほかは、むしろ普通の山頂の景色である。
これを『空気の平原』と称している。
一葉は樹木(生命体)から落下せざるを得なかった《死》である。生命を失ったものが肥大化(巨大化)するということは、死に新しいエネルギーが注入されたということである。
死からの蘇り・・・すなわち、霊/霊魂であって、ここは現世ではなく架空の黄泉の世界である。
岩・荒地に雄々しくも蘇った、名もなき一葉の静謐な反乱。
《わたくしは死してここに在る》という黙した主張。
空気は波立たず静かな広がりを見せている。しかし、平原と言うからには、すでに空気さえも質的変換を迫られた幻想の世界である。背景の曇天は、一葉の精神を映したものかもしれない。
「景色の雲のような、その通りの不穏を抱いております」というメッセージ。決して平穏ではない死者の精神を偉大とも思える大きな空間が護っている。
死者(一葉)の業は巨きく膨れ上がっている、しかし、この領域(黄泉の国)の空気は、それを崇高さをもって鎮める偉大なる大平原である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「あの人どこへ行ったろう。」カンパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「あゝ、ぼくもさう思ってゐるよ。」
☆図りごとの講(はなし)を運(めぐらせている)。
考(かんがえ)を逸(隠している)態(ありさま)は朴(ありのまま)の章(文章)で図っている。
仏が現れる僕(わたくし)の試みである。
「あなたがわたしになさった非難は」と、オルガは言った。
「もうとっくのまえからわたしがわれとわが身にくわえていたことですのよ。
☆「あなたがなさった(作品の)題材は」と、オルガ(機関/仲介)は言った。
「もうとっくのまえからわたしがわれとわが身に課していたことです!