アラハン/Around Hundred ということらしい。
「まさか、こんなに長きするとは思いませんでした」と、ほほっと微笑し、お元気な篠田桃紅先生。
アラハンの方々の元気溌剌なお姿の披露がそれぞれ評判になっている。
そうか・・・百歳まで元気でいられるんだ。しっかりしなくちゃ…69歳で年寄り臭いことなんか言っていると笑われちゃうぞ、という気がしてきた。
(わたしなんかは、そこまでは)(まさかね)
こればかりは分からない。
(どうする?)
アラハンの方々の大きな笑い声が、わたしには眩しい。
3月11日は、奇しくも5年前に「4人会」が発足した第一日目である。
粟田の夢庵でのランチの最中に、それは起きた。
「揺れたね」「揺れたわ」
「電気が消えたわ」「外へ出ましょう」
「携帯が通じないわ」「電線が揺れているわ」
「レジが動きません・・・」と、お店のスタッフ。
・・・結局、散会。
わたしの乗ったバスの運転手さん「なんで信号が消えているんだ!」
それでも無事に帰宅、静まり返った夫の一言「家が揺れていたぞ」
それどころでなかったあの日。惨劇悲運は今も続いている日本の損傷。
月一度の会食「4人会」に今日も出かけていく。5年の歳月が流れた。
言葉にできない鎮魂の気持ち、生きて在るわたしは、静かに祈り誠実に日々を重ねていく勤めを果たさなくてはと、意を新たにする。
『嵐の装い』
暗く不穏な空、荒れた海、沈みかけた帆船。
模様が刻まれた紙状の擬人化、人まがいの紙切れの直立した姿のものたちが、その荒れた海をあたかも見ているように感じる画面、光景である。
切り刻まれた傷だらけの薄い板状のものは、静かにも立っている。嵐を見ているこちらの領域は無風であるらしい。
嵐と無風…別世界が一つの空間に収まっている妙、光(光源)は擬人化されたものたちの手前にあリ、暗い嵐の海の波間を照らし出しているように見える。
船は大きいと予想されるがひどく小さく描かれている、ということは相当な隔たり、隔絶に匹敵する距離間があるということかもしれない。
冥府と現世という仮説が成り立ちはしまいか。
『嵐の装い』とは冥府の幽霊たちが、現世の嵐(死を覚悟した過酷な状況)に瀕した人を出迎えるための装いではないか。
黙した画面から、涙と叫びの嵐、声援と温情の装いが聞こえる。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
すると鳥捕りが横からちらっとそれを見てあわてたやうに云ひました。
「おや、こいつは大したもんでうぜ、こいつはもう、ほんたうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこぢゃない、どこでも手にあるける通行券です。
☆懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)の補(おぎない助ける)。
往(死の後)が現れる運(めぐりあわせ)である。
代(他のものに変え)展(ひろげる)章(文章)の講(話)を接(つないでいる)。
普く転(ひっくりかえる)章(文章)である。
章(文章)の趣(考え)は二つの講(話)を兼ねている。
村長と村長夫人が請けあってくれたように、クラム自身の手で書かれたものだし、これも村長の意見なのですが、私的な手紙で、いくらか曖昧なところもあるが、それでも重大な価値があるということです。
☆会衆の長はいかにして自由を証明できるのか、クラム(氏族)自筆の署名があり、、のちに会衆の長は、確かに先祖の非公式で多少不明なところがあるけれど、重要な価値があると言うのです。