続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

ゆく川の流れ。

2016-03-04 07:41:29 | 日常

 寒い、寒いと言っていたと思ったら、もう鳥の啼く春。早朝からチュンチュン啼いている。

 ツバメだろうか・・・気づけば三月。

 早いなぁ、早すぎる。早送りのコマのように進展し、地域全体が年を重ねていく。

 角のAさんご夫妻も亡くなってしまった。元気に笑いあった日々は幻と化し、今は閉じたきりの雨戸が胸に突き刺さるばかり。

 あぁ…、わたしも覚悟を要する年齢である。

 白露や 死んでいく日も 帯しめて (三橋鷹女)


 息子たちには言ってある。「お母さんが死んでも、泣かなくていいよ。十分愉しかったから」と。    
 霧消し、跡形もなく消えていく。
 《それでいい》と、先人たちが教えてくれている。
 それまで、気楽に《この世》とお付き合いしていくつもり。


マグリット『記念日』

2016-03-04 07:08:51 | 美術ノート

 『記念日』
 何の記念日なのだろう。部屋いっぱいの巨岩石、部屋が狭小なのか岩石が超巨大なのか、とにかく部屋に等しい大きさの岩石が部屋を占拠している。

 部屋は人類の進歩・発展によって完成された人知の結集であり、岩石は太古の昔からのあるがままの体(自然)である。
 人知(観念)の中に動かしがたく場を占める岩石(自然/ありのまま)の在りようは、観念と自然の対峙である。

 『自然の律』を、人類の発展が征服したように錯覚してはならない。あるいはそうでないまでも、自然(岩石)は人知に等しく存在しているということに気付くべきである。

 『記念日』というのは、後日(未来)の思い出とするために刻んだ日である。
 未来永劫、自然(岩石)は、人知(人もまた自然の一部である)の中に等しく存在するものであり、共存の約束を守るべきである。

 《この記念日を胸に刻んで忘れることのないように》、マグリットの表明である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『城』2250。

2016-03-04 06:37:54 | カフカ覚書

しかし、いちばん下っても、すぐつぎの上役のところへ連れていってくれることぐらいはできるだろう。連れていくことはできなくても、すくなくとも上役の名前ぐらいは教えてくれるだろうし、おしてくれることはできなくても、だれかのところへ行ったら教えてもらえるかと言うことぐらいはできるだろう。


☆たとえば、この(死)の控え室は、少なくとも全く入ることができない。バルナバス(生死の転換点)が終末(死界)でだれと話しているのか知らないけれど、ひょっとしたら、向こう(死界)の筆者は近づきがたい従者なのかもしれません。しかし、近づきがたくても、より近くのより高いところまでは連れて行ってくれるのではないかしら。連れていくことはできなくても、少なくとも呼んでくれることぐらいはできるだろうし、呼ぶことができなかったら、だれかある人の指示くらいは教えてもらえるのではないか。