『臨床医』
奇妙な姿であるが、一人の男を想定させるに足る位置関係である。
帽子の下の鳥かごには二羽の小鳥がおり、一羽はかごの中、もう一羽はかごの外に設えた台の上に止まっている。
鳥かごの出入り口は開放されているので、出入りは自由である。
男の両手は、右は杖、左はバックを各持っている。つまり、小鳥を捕らえることはしないという証でもある。
霞んだ空と海の背景、座している場所は砂地か岩場であり、豊穣の地ではない。
これらの条件が『臨床医』であるという。
ということはこの男が臨床医ではなく、この男を見る鑑賞者が臨床医ということらしい。
男は任意の男と言うより、作家自身であり、(わたしを診断してくれ)という関係である。
世界は開放されているのに、自分は居住の囲いから出ようともしない。夫婦二人、自由は約束されているのに、この空間の平穏な生活を甘受している。
カバーに暗示される外部との隔絶、すべてを閉ざしているわけではないが、すべてを明け透けに曝すのも苦痛である。
小鳥の白さに象徴されるように、わたしたちに後ろめたい隠し事はない。
また、飛び出そうという野心もなく、鳥かごのような小さな空間に平和を感じ満足している。
臨床医を委ねられた鑑賞者としては、肯くより術はない。
(写真は『マグリット』より/西村書店)
何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のことを考へたためだろうか。」カンパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)を並べることを可とする。
仁王(仏法の守護神)の僕(しもべ)として表す仮の講(はなし)である。
普く詞(ことば)に擬(なぞらえて)現れる。
しかし、かりにきょうがあの日、あの運命の岐路になる日だとし、わたしがあのころとおなじようにバルナバスの苦しみを、わたしたち一家の困窮を感じているとしたら、バルナバスがあらゆる責任と危険をはっきり覚悟のうえでふたたび微笑まじりにやんわりとわたしから離れて、お城へ出かけていくとしたら、あれ以来いろんな経験をしてきたにもかかわらず、わたしは、いまでも彼を引きとめはしないでしょうし、あなたもわたしの立場におられたら、ほかにどうなさりようもあるまい、とおもいます。
☆バルナバス(生死の転換点)の苦しみとなる現今のあの日、あの判決の日、わたしは彼を引きとめるべきだったとおもいます。
わたしたち一族の当時の苦境は、再びバルナバス(生死の転換点)の苦境になり、あらゆる責任と危険は、はっきり自覚すれば、復讐とは静かに解き放たれるでしょう。
彼が城(本当の死)へ出かけていくとき、現今、引き留めたにもかかわらず、すべてのことを休止したとわたしは信じます。あなたがわたしの立場にいらしたとしても他に方法はなかったと思います。