日々の暮らしである日常の大切さというより、ここに書く「日常」の大切さである。
息子に「お母さんのブログ、たまには見てくれている?」と聞くと、
「うん、たまにね。日常だけ」という返事。
「・・・?」(ニチジョウだけって何?)(ああ、日常ね。)
このところ美術関係のことばかり書いている。美術館の方の一言、「見てますよ」のお世辞に(そうか、では・・)とばかりに、美術ノートばかり書き散らしている。
息子にとってはそんなことどうでもよく、読んですらいなかったのだということを知った。(まあ、息子のために書いているわけではないし・・・でも)
そう、事の初めは「わたしの日常」を書くブログだったのだ。
☆今朝の孫の一言、『ご飯のなかの一粒一粒の中には、神様がいるんだよ』と。いい子だね、お前は。おばあちゃんは嬉しいよ!
『神々の怒り』
運転手付きの車に乗る紳士、その上に疾走する騎手の姿がある。
整備された道路、ブロック積みの塀。彼方に霞む山麓、大きく開かれた空は澄み渡っている。
この画面に『神々の怒り』があるという。
神とは何かという問題になるけれど、自然を超越した存在であり、在るとも無いとも確定不能な精神界の基軸であるゆえに、各地域・各団体におけるそれぞれの信仰の対象としてその存在は語られている。
その存在は物理的現象に表出するものではない。
しかし、自然の中に確かに信ずべきその存在はあり、人心をして行動や思考を制御するものである。
《逆らうことなく自然の理に従順に生きていく》これこそが太陽系の時空の存在者としての基本であり、守るべき律である。この法を秘かに司るものへの信仰の主軸が一般的に《神》と称せられてるのではないか。
その神々の怒り、それは空を飛ぶように疾走する騎手を正当化するような手段をもって描く《わたくし自身》に向けられるものである。
《神々の怒り》を恐れずに、重力の否定や時空の重なりを平然と創作する《わたくし自身》の思考を客観視し、『神々の怒り』と題したのである。
自由奔放な世界への解放は、すなわち自然界=神の存在の怒りを買うかもしれないというマグリットの自嘲である。
(国立新美術館『マグリット』展・図録より)