なにかしら手を動かしている。
作るものがないときは古タオルを半分に切って雑巾を縫っている。古裂を眺めては夢想する、技術が伴わないのでろくなものはできず、噴飯物の手作りが出来上がる。
ちょっと恥ずかしいようなものだけど、作っている時間が楽しい。
というわけで、今日も簡単バックの一丁上がりデス。
『青春の泉』
朱い空は何を意味しているのだろう。日没だろうか、それとも夜明けだろうか、どちらにしても活気に満ちたというよりは確定不能の不穏な空気である。
鷲をかたどった石碑(ROSEAU)の背後には、例の鈴(言葉・主張・伝説 etc)と肥大した一葉が描かれている。
一葉、一枚の葉は樹木(生命)から落とされたものであり、それは死を意味する。それが肥大化しているというのは、精霊の具現化ではないか。死した者(世界)の蘇りである。
「考える葦である」といった《葦》の文字が刻まれた鷲を模した石碑、鷲は不死や神の象徴である。不死や神という想念は、あくまで人間の考えによるものであり、人間の時代が終末を迎えれば、おのずと消滅を余儀なくされるものである。
青春・・・かって存在したであろう人類の源の墓標である。
人間は自然の中で最も弱い、しかし、鷲の強さをもって世界を制し、言葉(鈴)と精霊とを従えた若き時代があったのだとする遠い未来の新しい人たちの憶測である。
果てしないほど隔絶された遠い未来、その未来が、人類の若き日(現代)を『青春の泉』と称した墓碑ではないか。(時は果てしなく永続し、わたしたちの時代は石碑の中に括られる日が来るのかもしれない)
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
☆双(二つ)の我意、即(すなわち)、兼ねた章(文章)の路(すじみち)を補(たすける)詞(ことば)を図ることである。
死を究(つきつめる)幻(まぼろし)の我意を査(明らかにする)詞(ことば)を吐く。
破(やり抜く)懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を補(たすける)講(はなし)は、千(たくさん)の謀(はかりごと)の詞(ことば)が現れる。
しかし、ぼくは、まだまだ文句がある。オルガ、あんたにも言いたいことがある、あんただからといって、言わずにすませるわけにはかない。あんたは、当局にたいして畏敬の気持ちをもっているつもりでいるくせに、バルナバスをあの若さと気弱さにもかかわらずひとりぼっちにして城へやった。すくなくとも、それを引きとめようとはしなかった。
☆しかし、なお多くの非難があり、オルガ、君もそれを免れるわけにはいかない。それにもかかわらず、バルナバス(生死の転換点)は裁判に信念を持っていることに畏敬の念を抱いている。彼の若さと弱さと孤独は死に役立ったろうか、すくなくとも引き留めることはできなかった。