『夕べの徴』
波板の上には少し歪んだフレームがある。一見すると閉じられていたものを切り裂いて開けた印象があるが、閉じようとして一枚の平面になることはない。現れた風景は中央に一本の樹があり、地上には三つの球体が転がっている。
波板の上には一個の球体があり、遠景は黒く険しい山々、そして空は夕べなのか、怪しく黄ばんだ彩色である。
とにかく不穏な光景である。波板の上の球体は辛うじて留まってはいるが、落下は必至である。
フレームの絵を覆っていたカバー(本来そんなものはないけれど)は閉じられていたことを暗示しているが、人為的に裂いて中の光景を見せている。今を盛りと茂らせた樹木、三個の球体は地上に安定しているように見えるが、これもまた地平は傾いているので安泰ではない。
第一このフレーム自体、波板の上での直立は困難である。(まさか、山に寄りかかっているわけではないのだから)
フレームの中は象徴であれば、何らかの世界を示唆しているに違いない。(中央の樹、天と地、三体の球)これらの光景がフレームに収まり、立派に直立しているように見えるが、何ら支えのない状態である。
フレームの中の球体に等しい波板の上の球体も落下を余儀なくされるかに見える(微かに浮いているようでもある)。
『夕べの徴』は何かが崩壊する前兆を暗示している。寂寞漂うこの光景の予兆。
しかし、夜が来れば必ず朝が来ることへの期待、夕べというのは終末(世界の終わり)ではなく、未来を孕んだ予告ではないか。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
ジョバンニはその小さく小さくなっていまはもう一つの緑いろの貝ぼたんのやうに見える森の上にさっさっと青じろく時々光ってその孔雀がはねをひろげたりとぢたりする光の反射を見ました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の章(文章)が逸(隠れている)録(書き記したもの)を解く。
現れる真(まこと)は常に照(平等)である。
自(わたくし)は字で恒(つね)に講(話)を惹きつける。
講(はなし)の半(半分)は赦(罪や過ちを許す)を兼ねている。
「静かに」と、オルガが言った。「アマーリアが、こちらを見ていますわ」
アマーリアは、両親に食事を食べさせおわって、いまは母親の衣服をぬがせているところだった。彼女は、スカートの紐をほどいてやり、母の腕を自分の首に巻きつけさせ、母のからだをすこし抱きあげて、スカートをぬがせると、そっとまた椅子にすわらせた。
☆「静かに」と、オルガは言った。「アマーリアがこちらを見ています」
アマーリアは年月を経た未来が終わり、いまはそれに関する見本を拡げていた。
彼女は結びつきがない、地獄のまわりの見本でない哀れな人を抱え、気づくとわかると抑制し、やわらかい光を放った。