人生は夢のごとく過ぎていく。
しかし夢は淡く楽しいものであり、辛苦に満ちた時間の悪路を夢とは言わない。
悪夢を夢という希望につなげる魔法の杖があったなら、と思う。
わたしの人生のこれからは、身体の衰弱と共にある。飛んだり跳ねたりが不可能な老婆は身体の辛苦と闘わなければ生きていけないが、勝手に死ぬわけにもいかないのである。
あらゆる複合的な衰退は、わたしの機能を欠落させるので、昨日出来たことが今日はできない。
不具合は沈黙していない、「痛い」という叫びはごく自然である。けれど、耐えて隠し沈黙している。
記憶がたちまち霧消するという現象に関しては、外部からは見えにくい。
それらの鬱積を背負っている日常、その重さは日々増している。
「お母さん、元気でいて下さいね」と息子。わたしも出来ればそうありたい、望むところである。
でも、でもね。…それから先は言わないし、言えない。
夢見るように生きていく。
淡く楽しい夢のように錯覚出来る魔法の杖、そんなものはあるはずがないが、あえてそれを心の中で育てたい。
『礼節の教え』
遥かな地平と曇り空を背景に、巨岩石と樹木が等価関係で並んでいる光景である。ここに『礼節の教え』があるという。
巨岩石も巨木も信仰の対象になることがある。
しかし、この二つは何もない地平に立っているので比較する対象がない、故に本来の大きさの特定は困難である。にもかかわらず巨きいと認定しがちであるのは描かれた大きさと樹木の生育具合に倣うからである。(鑑賞者のデータに組み込まれた樹木が基準になる)
実際、山という地層の成り立ちでもなく、単に岩石として樹木に匹敵し、何もない地上に転がり落ちた巨岩石などあるのだろうか。
《あり得ないもの(空想の岩石)の持つエネルギーは、自然界の現象(樹木)に等しく対峙しうるものであり、対等である》というメッセージではないか。
イメージ(空想)の持つ力は、現実には不条理であると認定され、正規には受け入れられていない。しかし、その精神界と自然界は同等であり、お互い敬意を払うべき対象なのかもしれない。
見えるもの(存在)と見えないもの(不在)では比較しようがないというのが一般論であり通念である。
しかし、あえて、《見えるものと見えないものとは同値である》といい、礼節をもってイメージ(想像)の世界を尊重すべきであると暗黙のうちに教えられているような気がする。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
カンパネルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。
☆記を読むと、双(二つ)の含む隠れた己(わたくし)の辞(ことば)の図りごとが現れる。
あなたは、これを不正な、けしからんことだと思っておいでです。そういう意見を持っているのは、村ではまったくあなたひとりだけです。あなたのご意見は、わたしたちにとても好意的で、慰めになるところですわ。事実、それが思い違いからきているのでなかったら、わたしたちの慰めになるでしょう。
☆あなたには、不正かつ恐ろしく見えるかもしれません。村(来世)では評価は全く別々になり、あなたはわたしたちに非常に親切です。そしてまたそれが思い違いでないとしたら、わたしたちの慰めになるでしょう。