続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)樹のそばの。

2021-07-13 07:20:35 | 飯島晴子

   樹のそばの現世や鶴の胸うごき

 樹のそばの(樹傍)はジュ・ボウと読んで、呪、暴。
 現世はゲン・セイと読んで、言、凄。
 鶴の胸うごき(鶴胸動)はカク・キョウ・ドウと読んで、嚇、況、撞。
☆呪(のろう)暴(不当な)言(言葉)に凄(ぞっとする)。
 嚇(おどす)況(ありさま)を撞(たたく)。

 樹のそばの(樹傍)はジュ・ボウと読んで、需、謀。
 現世はゲン・セイと読んで、幻、整。
 鶴の胸うごき(鶴胸動)はカク・キョウ・ドウと読んで、覚、胸、道。
☆需(必要とする)謀(はかりごと)は幻(まぼろし)である。
 整えると、覚(感知する)胸(心のなか)の道(すじみち)がある。

 樹のそばの(樹傍)はジュ・ボウと読んで、授、貌。
 現世はゲン・セイと読んで、厳、清。
 鶴の胸うごき(鶴胸動)はカク・キョウ・ドウと読んで、較、狂、導。
☆授(さずかった)貌(顔かたち)は厳(おごそか)で清い。
 較(くらべること)は狂(こっけい)である、と導く。

 樹のそばの(樹傍)はキ・ボウと読んで、希、望。
 現世はゲン・セイと読んで、言、正。
 鶴の胸うごき(鶴胸動)はカク・キョウ・ドウと読んで、確、協、道。
☆希望を言うと、正確に協(調子をまとめること)が道(当然の道筋/ことわり)である。


鈴木しづ子(私的解釈)梅雨の葉よ。

2021-07-13 07:00:26 | 鈴木しづ子

   梅雨の葉よ嘆かるる身の常にして

 梅雨の葉、街全体は雨に煙り沈んでいる。
 雨、雨、雨の日々は街の活気を奪い、人々の足を留め、嘆きの声すら聞こえる。

 でも、ふと目にした木々の葉、濡れているからこそ美しく輝く活性、秘かな華やぎがある。ああ、父母身内に、それとなくいつも非難めく嘆きを受けているわたしの日常にも、秘かに自分を主張できる時の間があるやもしれない。


D『汽車の中の悲しめる青年』

2021-07-13 06:24:34 | 美術ノート

   『汽車の中の悲しめる青年』

 暗い茶褐色のモノトーンである。仮にこれを人体(青年)と認めるなら、その頭部は垂れている、下に傾いていることで、悲しみを納得させている。
 見かけ、仮象、思いこみ、データから推しはかる悲しみのポーズ、彩色は確かに悲しみに一致するかもしれない。
 汽車の中、刻々と場所を移動していく時空は、青年を包んでいる。青年はこの因果から逃れられず、時間は喜怒哀楽を猶予しない。

 板状の物、ラフスケッチのような動きと面は、青年とタイトルしなければ青年を想起させることは困難である。《言葉と映像》は簡単に結びつき有り得ない組み合わせを決定づける。
 ゆえに、『汽車の中の悲しめる青年』は、個々ほとんど似たような感想をもって思い描くはずである。
 しかし、画像(作品)はタイトルに媚を売らず無関係である、にもかかわらず、鑑賞者のほうが言葉と画像のギャップを埋める心理に陥るのである。

 作家はこのギャップ・通念に疑問を感じ、この作品を提示したのではないか。明らかに関係づけられない対象を言葉をもって簡単に意味づけられ関係性を成立させてしまう教育された脳、観念に一石を投じたものであり、苦笑、あるいは憤怒をもって悲しみを差し出したのである。


『国道の子供たち』22。

2021-07-13 06:12:31 | カフカ覚書

たしかに誰かがもういちど顎を突き出して跳ね起きたが、それもじつはもっと深いところへ落ちたくてのことだった。するとみんなは、両腕を斜め前にのばし膝を折り曲げて空中に飛び込み、つぎつぎに壕の深いところへ深いところへと落ちて行った。そして誰もやめようとしなかった。


☆なるほど誰かが水平線を高く上げるために全力を尽くした。先祖の傷痕をさらに深いところへ落とすためだった。すると、みんなは司法(正義)の力で悪意を非難し、再び死を深くに落とした、そして誰もそれを絶対に終わらせようとしなかった。