続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)はるばると。

2021-07-27 07:11:33 | 飯島晴子

   はるばると蓬のさがる故人の手

 はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、洋、洋。
 蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、朋、果。
 故人の手はコ・ジン・シュと読んで、個、尽、殊。
☆洋洋(希望に満ち溢れた)朋(友達)、果(予想した通り)個(一つ一つ)尽(すべて)殊(特別)である。

 はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、要、用。
 蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、俸、家。
 故人の手はコ・ジン・シュと読んで、孤、尽、守。
☆要用(ぜひとも必要な)俸(給料)で家を孤(一人)で尽(ことごとく)守っている。

 はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、鷹、遥。
 蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、峰、渦。
 故人の手はコ・ジン・シュと読んで、弧、尽、聚。
☆鷹が遙(遠くはるかな)峰で渦をまく。
 弧をかき、尽(ことごとく)聚(あつまっている)。
※アカハラダカの「タカ柱」(秋晴れ)

 はるばる(遙遙)はヨウ・ヨウと読んで、腰、瘍。
 蓬のさがる(蓬下)はホウ・カと読んで、呆、禍。
 故人の手はコ・ニン・シュと読んで、固、忍、腫。
☆腰の瘍(できもの)は、呆(あきれた)禍(わざわい)である。
 固(あくまでも)忍(我慢している)腫(はれもの)である。

※遥かなる法(手本)、過去を忍ぶことは須(必要)である。


D『9つの雄の鋳型』2。

2021-07-27 06:52:58 | 美術ノート

 個体を数えると確かに9つある。ただ、この鋳型たちはなぜ何かの形を模したような出来上がりを呈しているのか。鋳型は開いた中の形が問題であり、むしろそのことだけが問題(主題)であるはずなのに不要であるはずの外観が立派に設えられている。あたかも何かを想起させる誘因である。

 不要、外回りは中を包むのに無くてはならない物であり、無くては中の形を包み込むことはできない。必要であるが、外観の工作は不必要である。
『9つの雄の鋳型』は焦点をずらし、鑑賞者の眼目を分散、破壊している。視ようとする者の目を他に仕向けて主題を大きく外している。

 この巧みな《すり替え》は、タイトルと作品を合わせることでは空中分解、空に帰す目的を果たしている。
 意味の分解、無意味に帰することである。
 デュシャンの仕掛けた罠は、言葉と二次元表現(作品)により空間に縦横な亀裂を差し入れている。《有=無》、恐るべき実験である。


 写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより


『国道の子供たち』30。

2021-07-27 06:34:31 | カフカ覚書

 遠くの茂みの蔭から汽車が現れた、どの車室にも灯が点り、ガラス窓はきっちりと下ろされていた。ぼくたちのひとりが流行歌を歌いはじめた、みんなが歌いたくなっていたところだった。


☆遠くの林の蔭から鎖で束縛された集団の移動があらわれた。すべての企ては精査され、ガラスの食(死の入口)は確かに低く下げられていた。わたしたちのひとりが殴られはじめた、全員が唱で賛美していた。