続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)白味噌の。

2021-09-14 07:35:24 | 飯島晴子

   白味噌の甕の中ゆく旅人や

 白味噌はハク・ミ・ソと読んで、迫、三、組。
 甕の中ゆく(甕中行)はオウ・チュウ・コウと読んで、応、注、講。
 旅人はリョ・ジンと読んで、慮、尽。
☆迫(苦しめる)三つの組(組み合わせ)。
 応(他の動き、力に従って動かし)注(書き記す)講(話)を慮(あれこれ思いめぐらす)尽(ことごとく)。

 白味噌はハク・ミ・ソウと読んで、薄、(あれこれ思いめぐらす)(あれこれ思いめぐらす)(甕中行)はオウ・チュウ・アンと読んで、翁、衷、案。
 旅人はリョ・ジンと読んで、慮、人。
☆薄い眉の相の翁(老人)の衷(心の中)は、案(考え)を慮(あれこれ思いめぐらす)人である。

 白味噌はハク・ミ・ソと読んで、魄、魅、蘇。
 甕の中ゆく(甕中行)はオウ・チュウ・コウと読んで、往、衷、慌。
 旅人はリョ・ニンと読んで、旅、人。
☆魄(たましい)の魅(もののけ)は蘇(よみがえる)。
 往(人が死ぬ)衷(心の中)は慌(動揺し、狼狽える)旅人ではないか、きっと。
 

 


D『埃の栽培』

2021-09-14 07:07:08 | 美術ノート

   『埃の栽培』

 埃の栽培、埃は空中の塵芥が重力により地上に落下し留まっているものであり、人力によるものではなく、自然の摂理に従った結果の集合物に過ぎない。

 要するに栽培という人の意志の欠如したものである。降り積もった埃を見て、美を認める者はいないが、過去の時間というものに思いを馳せるかもしれない。
 確かに降り積もる埃には時間の集積がある、ただそれは計ることを拒むものであり困難な作業を伴う。風で舞い上がることもあり、空中の微塵は目に見えないからである。

 偶然であって必然ではない現象であり、偶然ではあるが必然的な結果をもたらすものでもある。そして『埃の栽培』は人為を必要とせず、待つという未来の時間を想定するものである。経験上、人はそれを知っているが待つという奇特な人をわたしは知らない。
『埃の栽培』は《無為》の証明である。


 写真は『DUCHAMP』 www.taschen.comより


『水仙月の四日』7。

2021-09-14 06:44:14 | 宮沢賢治

 二疋の雪狼が、べろべろまつ赤な舌を吐きながら、象の頭のかたちをした、雪丘の上の方をあるいていました。

 二疋…二はジと読んで慈(いつくしみ)、疋はヒキと読んで引き(力添え)。
 雪狼…雪はセツと読んで、説/お話、狼はオオカミと読んで、大神。
 赤い舌…赤はセキと読んで惜、舌は言葉。
 象の頭のかたち…象はショウと読んで招、頭はズと読んで図。
 雪丘…丘はキュウと読んで、救(救済)。
 上の方・・・ジョウホウと読んで定法(常法)。
☆慈しみの力添えである大神は惜しむ言葉で手招きし、救済の定法に従いました。