続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)野葡萄の。

2021-10-25 07:24:32 | 飯島晴子

   野葡萄の野をついてくる顔ひとつ

 野葡萄はヤ・ブ・ドウと読んで、爺、侮、童。
 野をついてくる(野付来)はヤ・フ・ライと読んで、耶、風、磊。
 顔ひとつ(顔一)はゲン・イツと読んで、厳、逸。
☆爺を侮(あなどる)童(こども)耶(詠嘆)。
 風(すがた)は磊(小さなことにこだわらない)が、厳(おごそかで犯しがたいもの)が逸(隠れている)。

 野葡萄はヤ・ホ・ドウと読んで、屋、保、道。
 野をついてくる(野付来)はヤ・フ・ライと読んで、也、風、来。
 顔ひとつ(顔一)はガン・イチと読んで、眼、一。
☆屋(建物)を保(持ち続ける)道(方法)也。
 風(かぜ、空気)を来たす眼(かなめ)が一(いちばん)である。(換気)

 野葡萄はノ・ブ・ドウと読んで、野、部、同。
 野をついてくる(野付来)はヤ・フ・ライと読んで、也、附、頼。
 顔ひとつ(顔一)はゲン・イチと読んで、限、位置。
☆野を部(区分けし)同(等しくする)也。
 附(印をつけること)に頼る限(区切り)の位置がある。


M『喜劇の精神』4.

2021-10-25 07:00:35 | 美術ノート

『喜劇の精神』であり、喜劇役者ではない。
 精神の具象化、穴の開いた薄い紙きれのように所在ない存在である。しかし、穴の様子を見ると、四方八方延々続く連鎖を成している切込み模様であり、これは無限の世界観、広がりを意味する。換言すれば限りなく《無》でもある。

 きちんと切り込まれた形に崩れはない、精神の緊張は毅然としてを許さない。
 人型、人間の形を保っているが内実は血肉を放棄し、薄っぺらい紙の仮装して可笑しみを演じている。
 危うい足元、常に危機感を抱いている。笑われることの蔑みに堪え、全身を力に変えて観客の前に立っている。フラットな背景、地盤は精神のカラーであり、常に地味に自分を抑えて均衡を保っている。勾配のある坂を何事もないような顔で直立して演じる猛烈なエネルギー、喜劇の精神は腹を抱えて笑う観客の前で平然と対峙している。

 高みからの眼差し、貶められるかの姿態、漂う哀愁・・・この時空を演出する喜劇の精神は生活の糧でもある。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』33。

2021-10-25 06:31:41 | 宮沢賢治

もうどこが丘だか雪けむりだか空だかさへもわからなかつたのです。聞こえるものは雪婆んごのあちこち行つたり来たりして叫ぶ声、お互の革鞭の音、それからいまは雪の中をかけあるく九疋の雪狼どもの息の音ばかり、そのなかから雪童子はふと、風にけされて泣いてゐるさつきの子供の声をききました。

 丘はキュウと読んで、救。
 雪けむり(雪煙)はセツ・エンと読んで、折(死)に援(引き入れる)。
 空は無。
 雪婆んごは、雪(死)の場、空間。月は雪婆んごの仮装。
 九疋はキュウ・ヒキと読んで、救いを引く力。

☆救いなのか、死に引き入れる力なのか、無なのかさえもわからない究極の混沌。
 この中を死の場、空間が渦を巻くように激動している。
 お互いの革むち(カクと読んで、覚(悟り)の鞭の音、雪(死)のなかをかけあるく救いを引き起こす力の大神たちの切ない声ばかり。
 そのなかから雪童子(死の導師)は風(教え)に諭されて泣いている子供(死の境にいる人)の声をききました。