続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)茄子の木を。

2021-10-27 07:22:09 | 飯島晴子

   茄子の木を焚いて埃を共にせり

 茄子はカ・シと読んで、化、詞。
 木を焚いてはモク・フンと読んで、黙、紛。
 埃を共にはアイ・キュウと読んで、相、究。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)詞(言葉)を黙っている。
 紛(入り混じって区別がつかなくなるもの)を相(互い)に究(突き詰める)。

 茄子はカ・シと読んで、果、至。
 木を焚いてはモク・ブンと読んで、目、文。
 埃を共にはアイ・キュウと読んで、挨、糾。
☆果(思い切ってやると)至(行き着く)目(ねらい)の文がある。
 挨(おして)糾(一つにまとめる/より合わせる)。

 茄子はカ・シと読んで、苛、死。
 木を焚いてはボク・フンと読んで、撲、憤。
 埃を共にはアイ・キョウと読んで、哀、胸。
☆苛(むごい)死、撲(叩く、打つ)に憤(いきどおる)。
 哀(かわいそうに思う)胸(心の中)である。

※木を焚いてはモク・フンと読んで、目、扮。
 埃を共にはアイ・キョウと読んで、愛、嬌。
☆茄子に目を扮(装う)と、愛嬌がある。


M『嵐の装い』2.

2021-10-27 06:38:11 | 美術ノート

 幾つかの人型に刻んだ切り紙細工模様、よく見ると同じ平面のものを切ったのではなく、それぞれ異なる模様である。模様は一点を軸にどこまでも連鎖を可能にする模様(形)であり、無限を内包していると思う。
 つまり、肉体を失った人型、霊(精神)である。

 この場所は光がさしており、両脇に壁のような仕切りがあるが、上方や前後の空間には遮蔽がないと思われる。仕切りは何を意味しているのだろう…同族だろうか。
『嵐の装い』・・・華美に着飾っているのだろうか、現世の基準は当たらない世界かもしれない。

 嵐、荒天の海(現世)を見ているような配置である。
 冥界では常に現世の嵐などお見通しなのだろうか、しかし、「装い」とあるから儀礼を尽くし尊いものとして照覧しているのかもしれない。

 声を上げることも、手を差し伸べることもできない隔絶された現世を、来世の側から描いている。難破船の災害、悲劇は玩具の小ささであり、どんな苦しみも乗り越えられぬものではなく、もし命を落とすようならば、喜んでこちらに迎えようと。

『嵐の装い』とは難破船での命の喪失を、「こちら(来世)では礼を尽くし、美しく着飾ってお迎えいたしましょう」という光景ではないか。

 写真は『マグリット』展・図録より


『水仙月の四日』35。

2021-10-27 06:22:50 | 宮沢賢治

雪童子は革むちをわきにはさんで耳をすましました。
「ひゆう、ひゆう、なまけちや承知しないよ。降らすんだよ、降らすんだよ。さあ、ひゆう。今日は水仙月の四日だよ。ひゆう、ひゆう、ひゆう、ひゆうひゆう。」

 わきにはさんで(脇挟)はキョウ・キョウと読んで、経、教。
 なまけちや(怠)はタイと読んで、他意。
 ひゆう(非有)→存在を消す、無にする。
 降らすはコウと読んで、乞う(願う)。

☆死の導師は無の覚(悟り)を経(経典)の仏の教えとして耳をすましました。
「存在を消すんだよ、無になるんだ!存在を消すんだよ、無になるんだ!、他意はいけないよ、願うんだよ、願うんだよ。今日は水仙の咲く時期の四日の月だよ。(特別な時空のありがたい秘だよ。存在を消して、無になるんだよ!無になるんだよ!・・・」