続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)正体を。

2022-01-06 07:08:22 | 飯島晴子

   正体をくらましてゐる菠薐草

 正体はショウ・タイと読んで、商、態。
 くらましてゐる(眩居)はゲン・キョと読んで、厳、挙。
 菠薐草はハ・ロウ・ソウと読んで、破、労、争。
☆商いの態(ありさま)は厳しく、挙(全て/一生懸命)破(やりぬく)。
 労(力を尽くして働く)争(競い合い)である。

 正体はセイ・タイと読んで、声、帯。
 くらましてゐる(眩居)はゲン・キョと読んで、弦、去。
 菠薐草はホウ・ロウ・ソウと読んで、封、聾、相。
☆声帯は弦(つる)であり、去(取り去ると)封(閉じてしまう)。
 聾(耳が不自由な人)の相(ありさま)である。

 正体はショウ・タイと読んで、章、他意。
 くらましてゐる(眩居)はゲン・キョと読んで、現、拠。
 菠薐草はホウ・ロウ・ソウと読んで、呆、労、捜。
☆章の他意が現れる拠(よりどころ)は呆(ぼんやりしている)。
 労(力を尽くして働き)捜すことである。

 正体はショウ・タイと読んで、正、大。
 くらましてゐる(眩居)はゲン・キョと読んで、言、嘘。
 菠薐草はホウ・ロウ・ソウと読んで、放、浪、相。
☆正しく大言(大げさに言う)、嘘である。
 放浪の相(ありさま)は。


M『心のまなざし』

2022-01-06 06:31:18 | 美術ノート

   『心のまなざし』

 精神界である。地上遥か向こうには純白の球体(真理)がある。
 天空はスッキリとはいかない迷いの苦渋、混沌の色が被っている。

 この地に立つわたくしの精神のありようは小さな入口から巨きく膨らみ、思考の各部屋は辛うじてバランスを保っているかに見える態である。下を覗いているのではない、上を望んで仰いでいるのである。
 このバランスは物質界(物理)では図れず、精神界(心)の中でのみ成立するもので、わたくしの心を遠くから眺め渡したものである。(地平線と建屋の角度を測るとわたくしの立地点が分かるはずであるが、その距離が計りえないところにわたくしの浮遊状態が隠れている)つまりわたくしとこの建屋(精神界)とは距離があり、わたくしがわたくしの心を客観視したならばという不確定な図である。

『心のまなざし』、どこまでも高きを望み、どこまでも不安定であり掴みどころない。しかし、わたしの心は、確かに燃えている。煙突から出ている赤い炎、いかにも小さいが確かに全身をもって燃えている精神の灯である。

 写真は『マグリット』展・図録より


賢治『春と修羅』3.

2022-01-06 06:18:01 | 宮沢賢治

 四月の基層の光りの底を
 唾し はぎしりする
 おれはひとりの修羅なのだ
 (風景はなみだにゆすれ)
 砕ける雲の眼路をかぎり
 れいろうの天の海には
 聖玻璃の風が行き交ひ

☆死を合わせた記は、双(二つ)あり、他意を推しはかる。
 衆等(人々)を、普く啓(人の眼を開いて理解させる、教え導く)救いを運(巡らせている)。
 現れる字を展(広げ)解らせる。
 照(あまねく光が当たる=平等)は理(宇宙の根本原理)であり、普く光の講(話)である。