♪ 夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お~手てつないで~ ♪
夕焼けを見るとなぜか懐かしい気持ちになる、故知らぬ郷愁である。
(明日は、晴れるのかな・・・)少し嬉しいようなざわつく胸の内、明日への淡い期待。
夕焼けを見ると、なぜか少しの哀しみに襲われる、故知らぬ不安である。
(ゆうやけって、いいなぁ)
ぼんやり、暗くなるまで夕焼けを見ている。
『天の筋肉』
切り紙細工のように切られた天(暗雲垂れこめた不穏な空気層)の末端が床面に生き物のごとく立ち降りている。地上は漆黒の闇であり、床面と思われる領域だけに光が差している。その床面は浮いているのか、固定されているのかは不明である。
筋肉は主にタンパク質から生成されているが、天(空気層)にタンパク質があるとは考えにくい。もちろん比喩であるが、質的変換を図った構想は何を表明しているのだろう。
あけがた近くの苹果の匂が/透明な紐になって流れて来る(青森挽歌より)
物質全部を電子に帰し/電子を真空異相といへば/いまとすこしもかはらない(五輪峠より)
「青空の脚」といふもの/ふと過ぎたり/かなしからずや 青空の脚(「歌稿」より) 〔宮沢賢治全集/ちくま文庫より〕
賢治の考えに酷似した世界観。たとえば不特定な流動体を不特定な平面に質的変換を試みる。
筋肉は運動神経(脳)が動かすもので、天(自然)に精神の働きを認めることは不可であるが、形態は類似から機能をイメージし、あたかも伸縮自在な筋肉を想起させることも可能である。
天という気体(気圏)は、形を切断・二次元に固定されることな絶対あり得ない。断じてあり得ないものを、あり得る形に固定して見せるという反逆。
マグリットは存在そのものの反逆を試行している。存在と不在、見えることと見えないことの明らかな亀裂を精神界のエネルギーを駆使して接合し、世界の本質を問うている。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
「あの人鳥へ教へてゐるんでせうか。」女の子がそっとカンパネルラにたづねました。
☆図りごとの帖(ノート)に、協(あわせて)叙べる詞(ことば)がある。
これを証明してあげるのは、やさしいことです。そのさい、フリーダのことを口にしても、どうかごめんなさいね。しかし、最後の結末がどうなったかということを度外視すれば、フリーダとクラムのあいだにも、アマーリアとソルティーニのあいだに起ったとそっくり似たようなことが起こったのですよ。しかし、あなたは、初めのうちこそびっくりなあったかもしれませんが、いまではもう当たりまえのことだとおもっていらっしゃるでしょう。
☆わたしはこれを容易に証明することができます。フリーダ(平和)とクラム(氏族)のあいだでも、アマーリア(月)とソルティーニ(太陽)とのあいだに起ったことも全く同じようなことなのです。はじめは驚きましたが、今では当たり前のことです。
人生は夢のごとく過ぎていく。
しかし夢は淡く楽しいものであり、辛苦に満ちた時間の悪路を夢とは言わない。
悪夢を夢という希望につなげる魔法の杖があったなら、と思う。
わたしの人生のこれからは、身体の衰弱と共にある。飛んだり跳ねたりが不可能な老婆は身体の辛苦と闘わなければ生きていけないが、勝手に死ぬわけにもいかないのである。
あらゆる複合的な衰退は、わたしの機能を欠落させるので、昨日出来たことが今日はできない。
不具合は沈黙していない、「痛い」という叫びはごく自然である。けれど、耐えて隠し沈黙している。
記憶がたちまち霧消するという現象に関しては、外部からは見えにくい。
それらの鬱積を背負っている日常、その重さは日々増している。
「お母さん、元気でいて下さいね」と息子。わたしも出来ればそうありたい、望むところである。
でも、でもね。…それから先は言わないし、言えない。
夢見るように生きていく。
淡く楽しい夢のように錯覚出来る魔法の杖、そんなものはあるはずがないが、あえてそれを心の中で育てたい。
『礼節の教え』
遥かな地平と曇り空を背景に、巨岩石と樹木が等価関係で並んでいる光景である。ここに『礼節の教え』があるという。
巨岩石も巨木も信仰の対象になることがある。
しかし、この二つは何もない地平に立っているので比較する対象がない、故に本来の大きさの特定は困難である。にもかかわらず巨きいと認定しがちであるのは描かれた大きさと樹木の生育具合に倣うからである。(鑑賞者のデータに組み込まれた樹木が基準になる)
実際、山という地層の成り立ちでもなく、単に岩石として樹木に匹敵し、何もない地上に転がり落ちた巨岩石などあるのだろうか。
《あり得ないもの(空想の岩石)の持つエネルギーは、自然界の現象(樹木)に等しく対峙しうるものであり、対等である》というメッセージではないか。
イメージ(空想)の持つ力は、現実には不条理であると認定され、正規には受け入れられていない。しかし、その精神界と自然界は同等であり、お互い敬意を払うべき対象なのかもしれない。
見えるもの(存在)と見えないもの(不在)では比較しようがないというのが一般論であり通念である。
しかし、あえて、《見えるものと見えないものとは同値である》といい、礼節をもってイメージ(想像)の世界を尊重すべきであると暗黙のうちに教えられているような気がする。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
カンパネルラが気の毒さうに窓から顔を引っ込めて地図を見てゐました。
☆記を読むと、双(二つ)の含む隠れた己(わたくし)の辞(ことば)の図りごとが現れる。
あなたは、これを不正な、けしからんことだと思っておいでです。そういう意見を持っているのは、村ではまったくあなたひとりだけです。あなたのご意見は、わたしたちにとても好意的で、慰めになるところですわ。事実、それが思い違いからきているのでなかったら、わたしたちの慰めになるでしょう。
☆あなたには、不正かつ恐ろしく見えるかもしれません。村(来世)では評価は全く別々になり、あなたはわたしたちに非常に親切です。そしてまたそれが思い違いでないとしたら、わたしたちの慰めになるでしょう。
『幕間』
片足片手が新しい生き物のように付着し、ポーズをとっている。幕を引く、あるいは開ける手は片足のみの共同体である。
不穏な空に少々傾いた山には点々と穴のようなものが開いている。山の地肌は、異質な質感を持っている。
遥か遠くの空には白い光が認められるが、手足の影の光源は手前にある。つまり、区切られた隔絶の世界である。
手足がなくても生存は可能であるが、脳や五臓六腑の欠落した手足のみの人間というものは現世ではありえない。
あり得ないものの光景は既に現世ではない。現世の向こうにあると思われる領域は来世と呼ぶ空想の世界である。
時間は不可逆であれば、この光景は死(異世界)へ向かうプロセスの『幕間』ではないか。
手足は幽霊の範疇であるが、肉を有し、あたかも生きている態の手足は通常の見識からすればグロテスクに見える。
右端に見える槽は現世に馴染みの物であり、幕もしかり・・・現世の名残リ、混在。
鑑賞者はこれら手足群に困惑しながらも擬人化を意識せざるを得ない。人のパーツを見て人を想起するというのも奇妙な操作であるが、そう強いられる要素がこの絵にはある。手足のみの切断は当然死であるのに、生命を感じる策(ありさま)があるという奇妙。
この作品は死への幕間ではなく、《観念と観念からの解放》の『幕間』である。この絵の所有する肯定と否定の重複は、有り得ない世界への否定と自由な肯定の『幕間』である。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
女の子は小さくほっと息をして黙って席へ戻りました。
☆詞(ことば)で照(あまねく光が当たる=平等)を測(予想し)、積(つみ重ねて)励(力を尽くしている)。