〈団長さん、団長さん、もうイカ減にして、この人たちに説明してあげてください〉と念じながら、ゼーマンのそばにつめ寄りました。ところが、ゼーマンは、妙なことにくるりとからだを回転させただけでした。
☆〈あたかも、人の大群〉と彼女は言った。それにもかかわらず決定的に喜んだのは、わたしたちへの圧迫がこちらに近づいてきたのですが、奇妙なことに、くるりと回転するきっかけになったことでした。
『花嫁』
具体的に何らかの物が描かれているのに、何であるかを明確に決定づけられない。
実際の作品を観たいと思っているが、カタログで見るメリット(?)が浮上することもあることを知った。
この作品を上下左右の観点に動かしてみると、見事なまでに同じバランス、酷似の動線が配置されていることに気づく。この感想を即、『花嫁』に結びつけることはできないが、花嫁というその期間だけの緊張感、精神の揺らぎを垣間見る思いがする。しかし、これは単に感情移入した結果の感想に過ぎない
何かが動く気配の構造ではあるけれど、始まりと終わりが欠如しているので、意味が霧消し、この絵の中に期待や躍進と言った前向きの生産性が四方の闇に流出してしまうのである。
故に、この『花嫁』と名付けられた作品のどこに『花嫁』たる所以があるのかを伺い知ることはできない。花嫁の暗示は皆無であるが、『花嫁』と名付けられたことで、鑑賞者はそのキメラを捜そうと作品を凝視する。
(作品)と(鑑賞者の眼差し)の間に流れる空漠、問いと応えの散逸、《無》から《有》を見逃すまいとする気迫、《有》から《無》を悟る落胆、これらの交錯。
デュシャンの作品は、作品と鑑賞者のあいだの空気感にその内実がある。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
ふりかへって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまひほんたうにもうそのまゝ胸にも吊るされさうになり、さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
☆現れる自由な弐(二つ)の果(結末)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
教(神仏のおしえ)により懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)。
叙べる詞(言葉)には、照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)がある。
繕(なおすこと)を迫る緒(もろもろ)を、法(仏の教え)で覚る。
伝える照(あまねく光が当たる=平等)の考えが現れる文(文章)である。
いったい、いつまでも笑っていなくてはならないようなことがあるのかしら、あるとしたら、わたしたちの身にふりかかったこのばかげた不正だけだはないかしら。
☆それゆえ、なんとなれば、いつまでも復讐しているようなことがあるとしたら、わたしたちの事件の不快な誤りだけではないかしら。
学校の勉強を復習したことがなかった。
なのに、『吊るし雛』の講座は復習。
七宝毬は、綿を入れるのが大変だったけど、何とかもう一つを仕上げた。桜は比較的簡単なのでたくさん作って吊るすのもいいなと思っている。
不器用この上ないわたしだけど、縫物はすごく楽しい!
『階段を下りる裸体』
裸体というような肉感がなく、きわめて物質的(板状を思わせる)である。裸体と明確に表明しているのに裸体からは遠い。しいて言えば、服飾がないという点で裸体と結びつけることができるかもしれない。
裸体らしく見えるものは、階段を下りているらしく連写をつなげているが、それはタイトルに照らし合わせて、そのように見えるだけである。何の注釈もなければ、ただガシャガシャした謎のような絵図に過ぎない。
しかし、あくまで『階段を下りる裸体』であり、タイトルが想起させる領域には拘束力がある。文字という記号には、それを決定づける約束がある。
階段を下りるという下降の連続は、時間・空間の変移を一枚の平面に集約したものであり、《虚》である。
階段は円形にカーブしているし、裸体はどこかタガを外せば一気に崩壊を余儀なくされるようで重心が計測できない。(膝を曲げている足、少なくても瞬間的には片足を階段に垂直に下ろす必要があるのではないか)
階段を下りることや裸体であることの必然性がない。
描く景色の焦点が見えない、たしかに落下していく不安定なイメージを感じるが、それ以上ではない。
連続(継続)する時空を停止の一枚に留める実験は無意味である。デュシャンはその無意味をあえて《意味の剥奪》という観点で捉えようとしたのではないか。従来の絵画が持つ感動の美から一番遠い所を目指した《文字≠現象》という破壊である。
(写真は『マルセル・デュシャン』美術出版社刊)
そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。
☆普く図りごとがある。
全て二つの講(はなし)の分(文章)であり、等(平等)を化(教え導いている)。
相(たがい)を、察(よく見ると)章(文章)の字の図りごとの果(結末)の考えが展(ひろがる)。
なにも知らないわたしたちは、ゼーマンこそその人にちがいないとおもいました。そして、このいつまでもつづく笑い声のなかからいまにはっきりした言葉がとびだしてくるだろうと、固唾をのんで待ちかまえていました。
☆なにも知らないわたしたちにはゼーマンのように見えました。いつまでも続く復讐の中から、最後には透明な言葉が放たれるのだと、注意深く待ちました。
友人が接種を受けた時、痛みが続いたような話をしていたので、ちょっと嫌だったけれど、とにかく一回だけは格安になるというのでクリニックに行ってきた。
ついでに膝のレントゲンと検診(心電図・血圧・尿検査・血液検査等)を受けたけれど意外に早く済んだので、無料の歯科検診も受けようとしたら「予約になっています」というのでこちらは断念(でも行っといたほうが良かったかなぁ)
ともあれ、ここ数か月の懸念を払拭。
「わたしはコロリと逝くから、検診はいいの」なんて言ってたけど、予防医学の時代、恥を後代に残しては(大げさ?)と思い切って敢行。
まぁ、検診を受ける際「朝食を抜かしてきてください」というポイントがどうしてもクリアー出来なかったせいもあって延び延びになっていただけ。
気をつけることはしっかり気をつけなくては!
帰り道、近所のNさんにばったり、御年96歳の彼女、おしゃれに決めて背筋もスッキリ。
「しばらくね、近頃はわたしもどこへも出かけないから遊びに来てよ」と言ってくれた。
ステキに美しい人。
そうね、やっぱり頑張らなくちゃ!
彼女の近況は近所のクリニック、内科と整形と皮膚科を順に回ることらしい。それにしてもお元気、羨ましいまでに神々しい。
『各階に水とガス』
(19世紀末のフランスのアパートに取り付けられていたエナメルの看板の模造)
各階に水とガス、この看板のどこに惹かれたのだろう。
水とガス・・・液体と気体、水と火。
水と火は、生きる上で欠くことの出来ない必要条件であり、それが各階に備わっているという利便性は英知の賜物である。
生命の連鎖をつないできた水と火、どちらが欠けても死へ直結してしまう。しかし水と火は留まるものではない。その不定形なものを「有ります」とうたっている。
水は流体であり、ガスは揮発する。各階に水とガスの機能が完備されているということであって、部屋の中に水とガスがあるわけではない。
看板を読むと各階(各部屋)に水とガスがある(存在)していることになるけれど、誰もそんな風には理解しない。スイッチをひねると水とガスが出る設備がなされていると了解する。
文字は必ずしも現象を正しく伝えないが、読む者は経験上その不確定な空間を埋めてしまう働きをもっている。
文字≠現象であるが、文字≒現象を、文字=現象にしてしまう傾向。
文字という記号への信奉、違和感という溝は、暗黙の了解で消去されてしまう。文字と現象(現実)のあいだにある虚空間は、《有る》が《無い》のである。(無いが、有るとも言える)
(写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク/TASCHENより)