続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『1-5-8』

2021-05-25 06:35:04 | 美術ノート

   1-5-8 振動尺試作Ⅱ

 斜めにカットされた切り口には接続を思わせる突起があり、長い直方体は規則的に刻まれた線条が見える。これらは台(地上)にあり、前後に抑え金のようなものがある。

 バラバラに離散するイメージがあるが決してそうならず固定は原則かもしれない。規則的、乱れのない並列は《時間》を想起させる。時間には振動の波は無いのだろうか、少なくとも地球上では歪みの報告はない。この作品を時間と限定したわけではないが、時間に質量があるとは聞いていない。
 この物は確かに質量をもって提示されている。

 時間の中に凝縮された出来事、歴史は、時間の中に留まり、決して列を乱すことはない。しかし、時間を抑制するものなどあるだろうか。
 この物(作品)は沈黙し決して語ることはないが、鑑賞者に訴えるものがある。その具体的な意味を感知できないが、無抵抗であり拡散がない。ストレートにひたすら接続を余儀なくされるもの、という印象である。

 作家の説明はない、しかし体感した世界観(空気)を質量ある形に置換しようと試みる静謐な吐息、あるいは迫力(エネルギー)を見逃すことができない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3658。

2021-05-25 06:23:45 | カフカ覚書

お内儀は、腰をかけるように、とKに長椅子をすすめた。自分は、立ち机のそばにある回転椅子に腰をおろした。
「仕立て仕事は、一度も習ったことがないのですか」と、お内儀はたずねた。
「ええ、一度もありません」
「じゃ、どんなお仕事をなさっているの」
「測量師です」


☆女主人は、Kを社会から追放された人かもしれないと見て、説教台のそばの回転いすに腰を下ろした。
「先祖の傷痕を皮肉ったことはありませんか」
「いいえ、一度も」
「では何をしていたのですか」
「土地がないことに気づいた者です」
※つまり放浪者ということ。


『飯島晴子』(私的解釈)色変へて。

2021-05-24 07:12:01 | 飯島晴子

   色変へてわが骨の過ぐ桔梗畑

 色変へてはシキ・ヘンと読んで、私記、返。
 わが骨の過ぐ(我骨過)はガ・コツ・カと読んで、芽、骨、果。
 桔梗畑はケツ・コウ・ハタと読んで、結、講、将。
☆私記は返(元に戻る)芽(きざし)が骨(物事の芯になるもの)である。
 果(結果)を結ぶ講(話)が将(もしかして)。

 色変へてはショク・ヘンと読んで、食、偏。
 わが骨の過ぐ(我骨過)はガ・コツ・カと読んで、我、忽、可。
 桔梗畑はケツ・キョウ・ハタと読んで、決、況、機。
☆食の偏り、我(わたくし)は忽(おろそかにしている)が、可(よいと決めたこと)を決(きっぱりと決める)機(心の働き)がある。

 色変へてはシキ・ヘンと読んで、識、弁。
 わが骨の過(我骨過)はガ・コツ・カと読んで、我、乞、化。
 桔梗畑はケツ・コウ・ハタと読んで、結、講、将。
☆識(物の道理を見分ける)弁(言葉)を我(わたくし)は乞(願う)。
 化(形、性質を変えて別のものにし)結びつける講(話)がある、将(もしかして)。


若林奮『振動尺試作 小Ⅱ~Ⅷ』

2021-05-24 06:38:10 | 国木田独歩

   振動尺試作  小Ⅱ~Ⅷ

 振動尺とは何だろう。振動波には形はない、空間を伝わる、あるいは押すエネルギーは目に見えない、在るが無いものである。

 それを形状に置換する。無謀な試みであるが、結論のプロセスには仮定は必須条件である。
 けれど誰も見たことのない振動尺、振動には確かに波の高下があるが、尺という単位に言及はない。
 物質には元素という明確な最小要素があるが、見えない空気感の最小単位は精神界の領域であって物理の領域に還元できないのではないか。
 それを敢えて《こんなもの》だと差し出す。誰も否定できず、促されるまま肯定を余儀なくされる問題作である。

 振動尺という言葉自体耳慣れないが、それには質量があると提示される。奇妙な違和感はその質量に対する疑惑である。不思議な感覚・・・作品を目の前にして、作品との距離を感じる。

 振動尺の異種、それぞれの差異、振動(空気)への厳密な眼差し。質量に置換した驚異、決定はなく試作であるという提示を受け止めざるを得ない。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3657。

2021-05-24 06:29:41 | カフカ覚書

衣裳部屋は、部屋の大部分の場所を占めていた。長いほうの壁をすっかりふさいでいただけではない。奥行きも深いので、部屋がひどく狭くなっていた。これをすっかりあけるには、引き戸が三枚必要だった。


☆排他的社会層の要求で大部屋は占領されていたが、完全に満たすことはなかった。狭い奥のほうに行くと、多くの先祖が問題になっていた。十分に自由(解放)になるには、三人の愚人を倒すことが必要だった。


『飯島晴子』(私的解釈)わけもなき。

2021-05-23 06:51:45 | 飯島晴子

   わけもなき夕川となる刺青の身

 わけもなき(訳無)はヤク・ムと読んで、役、無。
 夕川となる(夕川為)はユウ・セン・イと読んで、友、潜、慰。
 刺青の身はシ・ショウ・シンと読んで、私、商、進。
☆役(仕事)の無い友は、潜んでいる。
 慰める私は商(相談すること)を進(進言)している。

 わけもなき(訳無)はヤク・ブと読んで、薬、武。
 夕川となる(夕川為)はユウ・セン・イと読んで、憂、潜、医。
 刺青の身はシ・セイ・シンと読んで、思、凄、震。
☆薬が武(強いこと)の憂(心配)が潜んでいる。
 医(病気を治す)思いで凄(物寂しく)震えている。

 わけもなき(訳無)はヤク・ムと読んで、訳、謀。
 夕川となる(夕川為)はユウ・セン・イと読んで、有、選、意。
 刺青の身はシ・ショウ・シンと読んで、詞、章、新。
☆訳(ある言語を他の言語で言い換える)謀(はかりごと)が有る。
 選(多くの中からえらぶ)意(考え)の詞(言葉)で、章を新しくする。

☆躍(飛び上がるほど喜ぶ)夢を見た由。
 仙(不老不死の術を修めた人)となる、死生(死ぬことと生きること)の身である。


鈴木しづ子(私的解釈)ときをりは。

2021-05-23 06:37:10 | 鈴木しづ子

   ときをりは憶ふ或る事たんぽぽ黄

 ときをりはね、ふとした瞬間、あなたとのことを思うよ。
 不可逆、決して戻ることのできない過去の幻影。たんぽぽみたいに地味でありふれた、どこにでもある恋のお話。

 でもなぜか、光っている。光彩を放つたんぽぽの黄は見上げた陽の光に等しい。眩しすぎて悲しい或る事・・・ひそやかな誰にも言えないわたしの秘密。

 ときをりは・・・いいえ、いつも、いつだって胸の奥底、消えることなく憶っている。たんぽぽの不滅、不滅のたんぽぽの黄である。


『飯島晴子』(私的解釈)炎天の。

2021-05-22 06:55:26 | 飯島晴子

   炎天の七夕竹を去らぬ人

 炎天はエン・テンと読んで、遠、天。
 七夕はシチ・ユウと読んで、死地、有。
 竹を去らぬ人(竹去人)はチク・キョ・ジンと読んで、逐、虚、塵。
☆遠い天(そら)には死地が有る。
 逐(順に従い)虚しい塵となる。

 炎天はエン・テンと読んで、媛、恬。
 七夕はシチ・ユウと読んで、質、有。
 竹を去らぬ人(竹去人)はチク・キョ・ニンと読んで、逐、虚、忍。
☆媛(美しい女性)は恬(心が静かであっさりした)質(性質)が有る。
 逐(順に従う)虚(素直さ)を忍ばせている。

 炎天はエン・テンと読んで、冤、展。
 七夕はシチ・ユウと読んで、質、有。
 竹を去らぬ人(竹去人)はチク・キョ・ニンと読んで、築、嘘、忍。
☆冤(無実の罪)を展(省みる)質(内容)が有る。
 築(作られた)嘘に忍(我慢し耐えた)。

 七夕はシチユウと読んで、死中。
 竹を去らぬ人(竹去人)はチク・キョ・ジンと読んで、逐、巨人。
☆炎天(燃え盛る熱い空)、死中(死を待つしかない危険な状態)を逐(追い払う)巨人(偉大な能力を持つ人)がいる。


鈴木しづ子(私的解釈)かくまでの。

2021-05-22 06:26:15 | 鈴木しづ子

   かくまでの気持ちの老けやたんぽぽ黄

 遠くを見ていた、高きを目指したこともある。でも、あなたとの愛が遠のいた今、すがる術さえ失ってしまった。
 立って歩き前へ突進していく、向こう見ずが若さの武器。
 分別を知ったのか、分別に逆らったゆえの終局か…立ち止まり下を向きしゃがみこんでいる。

 老いだろうか、俯くわたしに見えるのは、馴染みのたんぽぽ…地べたを這うように咲き、歩行の妨げにならない場所でひっそり咲く思慮深く謙虚な黄の花。

 視野は急速に狭まり、たんぽぽの黄、その一点を見つめている。わたしの憔悴、精神は明らかに老いている。
 小さなたんぽぽの黄、隠した涙を知っただろうか。


『飯島晴子』(私的解釈)眺むるや。

2021-05-21 07:16:34 | 飯島晴子

   眺むるや一草となる仏の腹

※眺めていると、人は(みんな)相違(それぞれ違った個性を持っている)という仏の腹(心の中が見えてくる)。

 眺むるやはチョウと読んで、長。
 一草となる(一草為)はイツ・ソウ・イと読んで、逸、相、畏。
 仏の腹はブツ・フクと読んで、払、腹。
☆長く逸(隠れる)相(ありさま)は畏(怯え)を払う腹(心の中)である。

 眺むるやはチョウと読んで、帳。
 一草となる(一草為)はイツ・ソウ・イと読んで、溢、総、意。
 仏の腹はブツ・フクと読んで、打つ、副。
☆帳(ノート)は、溢れる総ての意(思い)を打つ(大いに語る)副(控)である。

 眺むるやはチョウと読んで、鳥。
 一草となる(一草為)はイツ・ソウ・イと読んで、逸、巣、囲。
 仏の腹はブツ・フクと読んで、払つ、覆。
☆鳥が逸(逃げた)のは、巣の囲いを払(はらい除け)覆(ひっくり返したから)である。