続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『1-4-p2』

2021-05-21 06:39:17 | 美術ノート

   1-4-p2(地表面の耐久性について)

 地面の上に設置された金属板、鋲のようなものが打ち付けられている。トンネル状に続く半円形の突起、それを抑えるかの直方体の突起、前後にはそれらを内包した突起・・・。
 この作品の前に立つと、自分が巨人になったような不思議な感覚に襲われる。世界を俯瞰するような極めて工業的な殺伐とした光景である。地表といいながら有機物(生物)がなく、全体無機的な冷たい乾いた空気感に覆われている。

 しかし、耐久性とある。
 耐久性、どんなに地下深く堀りさげ抑えても地表面の平安を維持できるものだろうか。地表面に打ち付けた鋲は頑強に見えても大地(地球を覆う地表面)の変動に太刀打ちできないのではないか。

 大地(地球)と人智(人間)の拮抗、その可能性は低く脆いものではないか。
 この作品の頑強さを眺めながら、むしろ人間のひ弱さを感じてしまうのはなぜだろう。
「人とは何か」
 この作品の時空を徘徊する小さな蟻の連帯、否、もう見えないほどの卑小さにしか感じえず、鑑賞者は巨人の傲慢さから風に飛ぶ微塵へと変貌を余儀なくされる感覚に襲われるのである。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3656。

2021-05-21 06:20:51 | カフカ覚書

 帳場は、こじんまりとした部屋で、暖房がききすぎていた。狭いほうの壁ぎわには、立ち机と鉄製の金庫があり、長いほうの壁ぎわには、衣裳箪笥と長椅子が置いてあった。


☆テーマの氏族の熱意。狭い壁ぎわには先祖の不動の監禁、長くさまよった排他的社会層と社会から追放された人たちの要塞があった。


鈴木しづ子(私的解釈)いまさらの。

2021-05-20 07:20:06 | 鈴木しづ子

   いまさらの如くにみるよたんぽぽ黄

 ずっと上を向き、がむしゃらに生きてきた。でも、ずっと見えていたし、分かっていたよ。タンポポの煌めく黄の色を。

 自分の目線よりずっと下にあるタンポポ、踏まれても摘み取られても抗議の一つも言えないタンポポの憐憫。だけど、すごいよ。除草する奴らなんかに負けてないものね、強くて逞しいその黄色は金に匹敵する!

 いまさら・・・ね。 いまさら気づいたふりしているけど、わたしの中のたんぽぽ、たんぽぽはわたしだよ。


『飯島晴子』(私的解釈)姥の口。

2021-05-20 06:50:48 | 飯島晴子

   姥の口あたりの草の音洩らす

 姥の口はボ・コウと読んで、簿、考。
 あたりの草(辺草)はヘン・ソウと読んで、遍、挿。
 音洩らすはイン・セツと読んで、隠、設。
☆簿(ノート)の考えを遍(もれなく)挿(さしはさみ)隠して設(拵えている)。

 姥の口はボ・コウと読んで、募、稿。
 あたりの草(辺草)はヘン・ソウと読んで、編、創。
 音洩らすはイン・エイと読んで、印、営。
☆募った稿を編(編集して)創(作り)印(印刷して)営(こしらえる)。

 姥の口はモ・コウと読んで、茂、荒。
 あたりの草(辺草)はヘン・ソウと読んで、辺、相。
 音洩らすはイン・エイと読んで、陰、翳。
☆茂った荒れた辺(片田舎)の相(ありさま)は、陰(暗く)翳(ものに覆われている/影)がある。

 姥の口はボ・コウと読んで、母、校。
 あたりの草(辺草)はヘン・ソウと読んで、変、想。
 音洩らすはオン・エイと読んで、遠、永。
☆母校は変(移り変わったが)、想いは遠く永(いつまでも続いている)。


若林奮『Ⅰ-4-5』

2021-05-20 06:27:47 | 美術ノート

   Ⅰ-4-5 〔無題〕Untitled

 名づけられないもの、答えの無いものである・・・起伏(山)があり平地(海のようでもある)がある光景。
 人為的に掘削された領域、垂直な切り通しである。自然への冒涜、生活のための営為。景色は矛盾を孕んでいる。
 人が自然の領域を侵していくことの発展・進歩は垂直の壁に見るような危険度の高い不安を内包している。

 ごく単純な山川の自然、人の叡智、生活は自然を脅かしているが、自然は主張することも争うこともないので景色は人間の思うままである。しかし、この作品は警告している。
 この作品の警告は言葉ではなく、形という静謐で時間と熟慮を要するものであり、ねじ伏せて聞かせるものではない。


 写真は『若林奮ーVALLEYS』展より 横須賀美術館


『城』3655。

2021-05-20 06:12:51 | カフカ覚書

「どこへ行きなさるのかね。どこへいらっしゃるのかね」と、すでにドアが閉まってからも、まだゲルステッカーの叫ぶ声が聞こえていた。その声にため息と咳がまじって、耳ざわりだった。


☆「どこへ行くの、どこへ行くの?」 すでにドアが閉じられてからも、まだゲルステッカーの叫ぶ声がした。その言葉には悲しみと早急さがまじるとともに、不快さがないことに気づいた。


『飯島晴子』(私的解釈)草上に。

2021-05-19 06:57:37 | 飯島晴子

   草上に秋の醤油を垂らす琴主

 草上はソウ・ショウと読んで、宗匠。
 秋の醤油はシュウ・ショウ・ユと読んで、衆、照、由。
 垂らす琴主はスイ・キン・シュと読んで、推、筋、趣。
☆宗匠(俳句などの師匠)は衆(大勢の人)を照(見比べること)を由(経て)推しはかるのは、筋(すじ)の趣(志すところ)である。

 草上はソウ・ショウと読んで、層、章。
 秋の醤油はシュウ・ショウ・ユと読んで、収、衝、愉。
 垂らす琴主はスイ・キン・シュと読んで、遂、勤、取。
☆層(幾重にも重なる)章を収めると、衝(重要なところに出くわす)愉(楽しみ)がある。
 遂(やりとげて)勤めて取(手に入れる)。

 草上はソウ・ジョウと読んで、争、状。
 秋の醤油はシュウ・ショウ・ユと読んで、醜、傷、諭。
 垂らす琴主はスイ・キン・スと読んで、推、金、須。
☆争う状(ありさま)は醜く傷(心が痛む)。
 諭(教え導くこと)は、推(ゆずることこそ)が金(美しく立派)であり、須(必要)であると。

 草上はソウ・ジョウと読んで、葬、場。
 秋の醤油はシュウ・ショウ・ユと読んで、愁、傷、諭。
 垂らす琴主はスイ・キン・シュと読んで、衰、緊、修。
☆葬場(葬儀場)で愁傷(愁い悲しむ)。
 諭(悟る/言い聞かせること)は、衰えることが緊(差し迫っていること)を修(学ぶこと)である。


若林奮『Ⅰ-4-7』

2021-05-19 06:30:11 | 美術ノート

   Ⅰ-4-7 Untitled

 正立方体のようなものがびっしり隙間なく縦横に並んでいる。しかし、下部に角柱状の空洞がある。貫通しているか塞がれているかは分からないが地下の空洞である。
 空洞はトンネル状(円形で通路面のみを水平に切ってある)でない限り、力学的に見て崩壊を免れ得ない。つまり極めて崩落の可能性が高い構造である。

 この示唆するものは何か。
 地上からは決して見えない危険の内包である。しかし、これは自然にはあり得ない景色であって人為の成せる光景である。自然の営為は力学的に説明がつくが、この形状は観念的であり、未来(時間の経過)を待たないほどの壊滅である。

 一見、静かな光景の持つ恐怖。
 作家は一寸先の闇の脅威に杞憂している。見えないが、確かにあるに違いないという空想上の恐怖である。
 心理的な動揺の起因は闇に潜んでいる。見えないが確かにあるに違いないという憶測は、時を選ばず出現する誰しもが抱く不安である。


 写真は若林奮『飛葉と振動』展より 神奈川県立近代美術館


『城』3654。

2021-05-19 06:18:48 | カフカ覚書

ゲルステッカーが、玄関のところで待っていて、Kと話したいことがあるというのだった。彼を振りはらうのは、容易ではなかった。お内儀も、助けに来てくれて、あつかましすぎると言って、ゲルステッカーを叱りつけた。


☆ゲルステッカーが災禍のことでとどまり、Kと話したいというのだった。彼を振りはらうのは容易ではなかった。女主人も助けてくれ、ゲルステッカーを非難した。

※ここで話の裏を暴露すると、ゲルステッカーは《死》、女主人は《生》。生と死のいざこざ?である。


『飯島晴子』(私的解釈)葵いちめん。

2021-05-18 07:03:38 | 飯島晴子

   葵いちめんおほをばはまたも横酔ひ

※葵というのは向日葵だろうか。一面のひまわり畑の驚異に大伯母さんはに眩暈を起こしている、大感動している。

 葵いちめん(葵一面)はキ・イツ・メンはと読んで、企、逸、免。
 おほをばは(大伯母)はタイ・ハク・ボ・と読んで、他意、吐く、簿。
 またも横酔ひ(又横酔)はユウ・オウ・スイと読んで、憂、応、遂。
☆企てが逸(隠れていること)を免(許してほしい)。
 他意を吐く簿(ノート)の憂(愁い/悩み)に応え、遂(やりとげている)。

 葵いちめん(葵一面)はキ・イツ・メンと読んで、鬼、溢、綿。
 おほをば(大伯母)はタイ・ハク・ボと読んで、態、白、母。
 またも横酔ひ(又横酔)はユウ・オウ・スイと読んで、幽、奥、睡。
☆鬼(死者)は溢(あふれている)。
 綿(細く長く続く)態(ありさま)は白(何もない)。
 母は幽(あの世)の奥で睡(眠っている)。

 葵いちめん(葵一面)はキ・イツ・メンと読んで、喜、溢、面。
 おほをば(大伯母)はタイ・ハク・ボはと読んで、対、迫、慕。
 またも横酔ひ(又横酔)はユウ・オウ・スイと読んで、友、応、誰。
☆喜こびの溢(あふれる)面(顔)で対(向かい合い)迫(近づく)。
 慕(懐かしい)友に応(こたえる)誰かがいる。