「和同開珎」
江嵜企画代表・Ken
日本で最初に流通したと「続日本記」に記載の通貨「和同開珎」の鋳型の制作技術について、8月26日午前10時からノボテル甲子園で開かれた甲陽史学会で、青木正幸氏(辰馬考古資料館)から聞く機会があり楽しみにして出かけた。会場の様子をいつものようにスケッチした。
辰馬考古資料館所蔵の粘土で出来た鋳型12点、内、錢面は8点、錢背は4点。側面を残す個体は2点。底面を残す個体5点中心に説明があった。鋳型相互に接合する個体はない。
銅、鉛、鈴などの原料を溶かし地金を作る。砂の上に種錢を並べ、鋳型を作った。鋳型に写し取られた錢と棹の間をつなぎ、溶かした原料を流し込んだとみられる。湯道の左右に鋳型が一列ないし複数並ぶ。錢文の向き・間隔はそろっていない。鋳型の錢の表面は完全には残っていないなどと講師の青木先生は説明された。
ただ、青木先生の説明を聞いても正直、和同開珎がどのように出来上がるのか理解できなかった。甲陽史学会で以前、梵鐘の話を聞いたことがある。粘土で枠組みを作る。銅などの原料を流し込む湯口がある。粘土の枠組みを外して梵鐘が出来上がる。梵鐘の制作には中国、朝鮮、日本3ケ国で情報交換が行われた。それが中国製、朝鮮製、日本製それぞれに痕跡をとどめていると聞き、強く印象に残った。
そこで、今回、講演のあと門外漢の素人質問だがと前置きして、筆者は「和同開珎の製造でも情報交換があったのか興味がある。今一つ錢貨の流通量はどうだったのか。本日聞いた制作方法ではとても対応できない気がする。」と質問した。青木先生は「おそらく情報交換はあったと思うが、その点に関する資料は長門遺跡などでも残っていない」と答えられた。
甲陽史学会は考古学の専門の集まりの会である。筆者の質問を受けて「和同開珎は和銅元年(807)日本で鋳造・発行された。大量の和同開珎が出土している。流通していたことは間違いない。621年に発行された唐の改元通宝を模して造られた。3国で情報交換があったかどうかについては今後の研究テーマになる」と答えていただいた。和同開珎は当時から偽物が大量に出回っていたようだ。和同開珎は9世紀半ばに製造は停止された。
余談ながら甲陽史学会は同日に開催される甲陽学院同窓会総会の前に同じホテルの小部屋で開かれることが恒例となった。当会会長の橋本久先生(41回生)が60数年前、中学地歴部在籍、筆者(38回生)が高校地歴部だった縁で光栄にもご案内いただき感謝している次第である。(了)