山脇直司様。
お便り、ありがとうございます。
もしお出で下さるならば、喜んでお迎えします。
「公共哲学とは何か」は、研究会や授業でテキストとしても使う予定です。
私は、実存の深みへの探求のためには、公共的な社会性の探求・獲得が必要だと考えています。「実存は公共性に先立つ」(笑)というわけです。
私が考える哲学とは、椅子という「事実」はない、真に実在するものとは椅子の「意味」であるーというソクラテスープラトンのイデア論のことです。
そういう意味では、イデア論を否定したアリストテレスは、学問ではあっても、哲学とは言い難いかな?と思っています。
プラトンの「国家」もルソーの「社会契約論」も共にイデアとしての都市国家論・社会論であり、経験的な事実学ではないので、そのような読み方が必要だと思います。
実存論と社会学(意味論としてではあれ)とでは、水面下と水面上の違いがあるようです。サルトルのレトリカルな書き方は、両者を融合するための要請だったのではないでしょうか。
名称は、単に「公共学」または、「公民学」の方がよいかな?と感じました。「存在論」(これは竹田青嗣さんが解釈し直した「現象学」を下敷きにする以外にはないでしょう)の探求を基盤として、そこから反転して「公共学」に上向するというのが正解ではないか、と考えています。ともあれ、この両者ー水面下と水面上をそのもまま結合することは出来ないと思います。必要なのは、違いの明晰な意識化、ではないでしょうか。
では、お会いできる日を楽しみに。(お名前失礼致しましたー訂正しました。) 協力関係がうまく築けたら、楽しく有益ですね。
武田康弘。(2005.1.13)
お便り、ありがとうございます。
もしお出で下さるならば、喜んでお迎えします。
「公共哲学とは何か」は、研究会や授業でテキストとしても使う予定です。
私は、実存の深みへの探求のためには、公共的な社会性の探求・獲得が必要だと考えています。「実存は公共性に先立つ」(笑)というわけです。
私が考える哲学とは、椅子という「事実」はない、真に実在するものとは椅子の「意味」であるーというソクラテスープラトンのイデア論のことです。
そういう意味では、イデア論を否定したアリストテレスは、学問ではあっても、哲学とは言い難いかな?と思っています。
プラトンの「国家」もルソーの「社会契約論」も共にイデアとしての都市国家論・社会論であり、経験的な事実学ではないので、そのような読み方が必要だと思います。
実存論と社会学(意味論としてではあれ)とでは、水面下と水面上の違いがあるようです。サルトルのレトリカルな書き方は、両者を融合するための要請だったのではないでしょうか。
名称は、単に「公共学」または、「公民学」の方がよいかな?と感じました。「存在論」(これは竹田青嗣さんが解釈し直した「現象学」を下敷きにする以外にはないでしょう)の探求を基盤として、そこから反転して「公共学」に上向するというのが正解ではないか、と考えています。ともあれ、この両者ー水面下と水面上をそのもまま結合することは出来ないと思います。必要なのは、違いの明晰な意識化、ではないでしょうか。
では、お会いできる日を楽しみに。(お名前失礼致しましたー訂正しました。) 協力関係がうまく築けたら、楽しく有益ですね。
武田康弘。(2005.1.13)